正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

戲志才のこと、後漢末の「避諱」のこと

曹操軍団初期の謀臣・戲志才(戯志才)。
三国志に残る記述は3か所に過ぎない。
荀彧伝本文、荀彧伝注の「荀彧別伝」、郭嘉伝本文である。


荀彧伝本文:
天子拜太祖大將軍,進彧為漢侍中,守尚書令。
常居中持重,太祖雖征伐在外,軍國事皆與彧籌焉。
太祖問彧:「誰能代卿為我謀者?」彧言「荀攸鍾繇」。
先是,彧言策謀士,進戲志才 。 志才卒,又進郭嘉


荀彧伝注の「荀彧別伝」:
前後所舉者,命世大才,邦邑則荀攸鍾繇陳羣,海內則司馬宣王,
及引致當世知名郗慮、華歆、王朗、荀悅、杜襲、辛毗、趙儼之儔,終為卿相,以十數人。
取士不以一揆,戲志才、郭嘉等有負俗之譏,
杜畿簡傲少文,皆以智策舉之,終各顯名。


郭嘉伝本文:
先是時,潁川戲志才 ,籌畫士也,太祖甚器之。早卒。
太祖與荀彧書曰:「自志才亡後,莫可與計事者。
汝、潁固多奇士,誰可以繼之?」彧薦嘉。


(荀彧伝本文の意訳)
曹操が天子を許都に迎えると、荀彧は侍中,守尚書令となった。
(荀彧が手元から離れたので)曹操は代役を求めると
荀彧は「荀攸鍾繇」を推薦した。
これ以前、荀彧は策謀の人として戲志才を推薦していた。
戲志才が死去すると、こんどは郭嘉を推薦した。


(荀彧伝注の「荀彧別伝」の意訳)
荀彧が推薦した人物は多くが大出世したが
荀彧の推薦基準はひとつではなく、
「負俗の譏り」のあった戲志才、郭嘉のような人物もいた。


郭嘉伝本文の意訳)
潁川の戲志才は計略家で曹操に重宝されたが、早くなくなった。
曹操が荀彧に手紙を送って尋ねた。
「戲志才が亡くなってから計略の相談を出来る者がいない。
汝、潁の地は人材が多いが、誰が戲志才のあとを継げるか」
荀彧は郭嘉を推薦した。


まず、戲志才が曹操陣営に加わった時期を考える。


初平二年(191年)、荀彧は袁紹に見切りをつけ曹操に帰参した。
曹操が東郡太守であった時のことだというが
それならば191年であっても秋以降のことと思われる。
これ以降に荀彧が戲志才を推挙したことになろう。


ここから絞り込むのは難しそうだが、ヒントはないことはない。
194年夏、曹操が2度目の徐州征伐に赴く際、
荀彧と程昱が留守役となり、鄄城を守った。
陳宮兗州に残っており、反乱を起こすことになる。
当時の曹操陣営の智者といえば、まずこの3名になる。


彼ら全員が兗州に残っていたのなら
別の参謀が従軍して曹操に助言を続けていたはずだ。
おそらくそれが戲志才なのだろう。
もちろん、登用していきなり討伐軍の参謀トップに据えることはあるまい。
193年秋の一度目の徐州征伐にも貢献していただろう。


191年末の荀彧の帰参からほどなく、
192年、193年のうちに戲志才も曹操に仕官していたことだろう。
192年冬の青州黄巾との戦いで活躍していた可能性もある。


では戲志才の死亡時期はいつか。
戲志才が死ぬと、曹操がその後任候補を荀彧に請うた。
しかも手紙で尋ねた。
つまり荀彧が曹操から離れていた時だった。
おそらく、荀彧が朝廷高官になった時の話、
つまり196年の冬以降だ。
そして推薦された郭嘉はおそらく197年の中頃に帰参した。


こう考えていくと気になるのは
197年1月の、張繡の反乱による敗北である。
この時、曹昂、曹安民、典韋が戦死した。
もしかして、戲志才もこの時に戦死した可能性はないだろうか。


時期的には矛盾はない。
ただし、この敗戦は各書に記述があるが
戲志才の名前は出てこないから
単に死亡時期が近いだけで、戦死はしていないかも知れない。


もちろん、別の可能性もある。
戲志才はもっと前に死亡していたが、
曹操が戲志才の後任を要望したのが197年だった、
つまりタイムラグがあった可能性である。
もしタイムラグがあったのなら
その間、誰が曹操の「計略の相談相手」であったのか。


196年冬に荀彧が朝廷に入った時、
曹操はその後任を要望し、荀彧は荀攸鍾繇を推薦した。
荀攸は遠方にあり、到着は197年後半以降と推測する。
鍾繇はこの頃、御史中丞または侍中/尚書僕射であった。
荀彧の推薦を受けて、尚書僕射となったのか。
あるいは尚書僕射から司隷校尉に異動になったのか。
いずれにしても、国家戦略を相談するパートナーと言うべき地位であり、
曹操荊州進出に従軍するような身分ではない(可能性はゼロではないが)。
程昱は東中郎將,都督兗州事として兗州をまとめていた。
董昭は曹操と関係を深めつつあったが、まだ符節令として朝廷にいた。


であれば、197年1月の荊州侵攻に従軍する「軍師」は
戲志才をおいて他にいないのではないか。
つまり197年前半まで、ずっと戲志才が曹操の「相棒」だった。
戲志才は張繡の反乱で戦死しなかったが
ほどなく亡くなり、後任として荀彧は郭嘉を推挙した。
これが197年中頃だった。
そういう想像は成り立ちそうに思える。


曹操陣営は多士済々のイメージがあるが、
人材が結集し始めるのは献帝奉戴後である。
郭嘉荀攸が帰参したのは197年中頃以降である。
戲志才は「早くに亡くなった」という言葉に引っ張られがちだが
192年頃~197年初頭まで、
それなりの期間に渡って曹操を支えたのかも知れない。


さて、本題。
それは戲志才の名前のことである。
戲姓というのは現在でも存在するらしい。
よって、戲=姓、志才=字(あざな)と前提して、では名は何なのかを考える。


「避諱」というのは、貴人や自分の祖先の名の使用を避けるというものだ。
戲志才の名が記されないのは、まず「避諱」のためであろう。


戲志才の名と、史家の親族の名が共通していたため、避けられたのか。
たとえば陳寿の親族の名と共通していた。
しかし、裴松之のつけた注「荀彧別伝」でも名が消されている。
おそらく史家の線ではあるまい。


では時の皇帝か。
後漢や、魏、晋、
あるいはもっと後の時代、たとえば唐の皇帝と同名だったのか。
どの時期だろうか。


裴松之の注がヒントになるかも知れない。
その注で戲志才の姓名を紹介していない。
裴松之の時代には、もう名前は調べようがなかったのではないか。


逆にその頃に「戲某」と書かれており、
裴松之よりあとの時代に書き換えられたケースはあるのか。
その場合は、逆にあざなが残っていなかったはずだ。
なぜって、わずかな記述しか残っていない人物なのだから。
戲某 → 戲志才とするような書き換えは出来ず、
戲某 → 戲〇へと書き換えしたはずだ。


では裴松之の時代以前、
たとえば晋の皇帝と同名だったのか。
確かに三国志の成立は西晋の時代であり、
晋の皇帝の名が一番センシティブである。
が、三国志の史料は晋代以前のものが多くあり、
裴松之はそれを多く採用している。
三国志本文では「戲志才」と記載していても
陳寿が参考にした前時代の史料から
戲志才の名を引っ張ってくることが出来る。
それがないのだから、
裴松之の時代、西晋の時代どころか、
魏代においても名前が消えつつあった可能性がある。


戲志才は三国時代の到来より20年も前に死去している。
では、後漢の皇帝と同名だったのだろうか。
しかしこれは同時代人であるので
さすがに不便すぎて戲志才は別名を持ったのではないか。
そして別名で史書に残ったはずではないか。
そうならなかったのだから、
「戲宏(霊帝の諱)」や「戲協(献帝の諱)」ではなかったのだろう。


そう考えていくと、魏の皇帝と同名だった可能性が一番高いのではないかと思うのだ。
つまり、「戲丕」、「戲叡」あたりだったのではあるまいか。
あるいは「戲操」の可能性はあるのだろうか。
名はあざなと連関するらしいので
「志操」という言葉があることを考えると、
「姓は戲、名は操、あざなは志才」というのは有り得そうな気もする。
ただ曹操に仕えているので、早くに別名を持つのではないかと思うが、
そういうケースでは実際にどういうことが起こるのか、私は調べられていない。


以上のような想像は何度もしたことがあったが
このレベルの想像にとどまっているなら、
とても記事にする気は起きなかった。
だが、前回の「萇奴」を考えた際に新たな気付きがあった。


つまり、戲志才という名が史書に残ったが、
後漢桓帝の名は「志」である、ということだ。
これはどう考えたらいいのかという問題だ。


桓帝は168年に死亡している。
曹操は155年生まれ、荀彧は163年生まれ、郭嘉は170年生まれ。
彼らより先輩の程昱は141年生まれだが、
仮に戲志才が荀彧と同世代だとした時、
生まれてほどなくして桓帝崩御している。
志才というあざなをつける前であろう。
これは何を意味するのか。


たとえば、本当は「戲叡才」であったが、
魏の明帝の名を避けるために、史書が書き換えられた、
つまり、「志才」というのも正しくない、という可能性はゼロではない。


だが、一方で、漢末魏初には「閻志」なる人物もいるのである。
閻志が史書に登場するのは220年代だが、彼は閻柔の弟である。
閻柔は後漢末に幽州で勢力を持った人物で、曹操に帰伏した。
曹操は閻柔を見ること我が子のごとくだったというが、
閻柔は193年頃から活躍しており、
曹丕(187年生まれ)より15歳以上は年上に思えるが、どうだろうか。
仮に閻志が曹丕と同世代だとしても、後漢末には成人している。
その時は別の名を名乗り、魏代になって「閻志」に改名したのだろうか。


あらゆる可能性が考えられる。
が、後漢末に「志」を名乗っていた可能性を考えてみる。
つまり、桓帝の「志」は避諱の対象ではなかったのではないか。


というのも、霊帝桓帝のいとこの劉萇の子である。
傍系が本家を継いだのだ(もっとも、桓帝だってもともと傍系である)。


前回、明帝の禁令について触れた。
傍系から皇帝が立って本家を継ぐ際、実父について「皇」の位を贈るのをやめよ、と。
原文にはこういう表現も残っている。
「妄建非正之號以干正統」
(みだりに非正の號を建てて、正統を干犯し、)


その禁令が出されたのは、それが後漢代に横行していたからだ。
つまり、霊帝桓帝を継ぐと、
実父(劉萇)と祖父(劉淑)に「皇」を贈り、正統を干犯した。
乱暴に言い換えると「皇統がすり替わった」。


桓帝霊帝の血筋は下記である。

章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝崇皇(劉翼) - 桓帝(劉志)
章帝(劉炟)- 孝穆皇(劉開) - 孝元皇(劉淑) - 孝仁皇(劉萇) - 霊帝 - 献帝


ここで目を引くのは桓帝の父、劉翼である。
後漢末~蜀漢の有名人に張翼がいる。
ここから次のことが解釈できる。
皇帝でない「皇」は避諱の対象ではなかったか(ただし皇帝は常に避諱の対象)、
または、霊帝即位後、桓帝桓帝父は避諱の対象から外れたか、である。
前者の場合、つまり桓帝は引き続き避諱の対象であったのなら、
「戲志才」「閻志」は何かの間違いとうことだ。


もう少し考える。
後漢の7代皇帝の少帝(劉懿)のことである。
中文Wikiには「在位半年て夭逝したため、朝廷から正統な皇帝として数えられなかった」とある。
日本語Wikiにはそれに加えて「そのため避諱の対象にならなかった」とし、
司馬懿呉懿を例にあげている。


この記述は、何かの研究に基づいているのか、
Wiki編集者の個人的意見が書かれているのかよく分からない。
確かに、司馬懿という名前は「懿」が避諱でない証左だが、
それは少帝固有の問題なのかどうか。


たとえば、5代の殤帝(劉隆)がいる。
こちらも夭逝だが、後漢書には殤帝紀があり、
死亡時には「帝崩」と書かれる。
少帝の劉懿は安帝紀の末尾に付記されて
独立の紀は存在せず、
死亡時にも「少帝薨」と書かれ、皇帝専用の「崩」の字は使われない。
だが、その殤帝の同名の高堂隆を我々は知っている。


少帝と似た存在に、献帝の兄である弘農王の劉辯がいる。
劉辯は皇帝に即位したが、まもなく廃立され、殺害された。
劉辯も独立した紀はなく、死亡時は「董卓殺弘農王」である。


その弘農王について、儒者の董遇が曹操にこう語っている。


「春秋之義,國君即位未踰年而卒,未成為君」
(春秋の義では、君主が即位して年を越えずに死去したならば、君主の扱いとなりません)


殤帝の在位期間は10か月ほどだが、年は越している。
そうした違いはあるかも知れない。
つまり殤帝が正当な皇帝扱いをされた可能性はありそうだが
それでも避諱の対象となっていないのである。


それは何故なのか。
年代を経るうちに、避諱の対象から外れたか(この可能性はありそう)。
それとも、傍系が「正統を干犯」したために、
それまでの「正統」が避諱の対象から外れたか。


後者の場合。
後漢末においては桓帝桓帝父は避諱の対象外であった、となる。
また、少帝、殤帝にとどまらず、他にも対象外の皇帝がいたかも知れない。
霊帝献帝の血筋だけが避諱の対象であったのかも知れない。
そうであれば、萇奴の名が史書に残ったことの違和感がますます大きくなる。
霊帝献帝は第3代章帝の子孫である。
第4代の和帝から桓帝にいたる皇帝はすべて避諱の対象外だったのかも知れない。
あるいは、在位期間やその治世の内容により、区別がつけられたか。


※黃初年間(220-226)、魏の校事に劉肇という人物がいた。
後漢末に成人していた可能性があるが、第4代和帝(劉肇)と同名である。


(★※追記。應劭について調べていたら、張昭伝注に諱についての應劭と張昭の意見とが出てきた。記憶の片隅にあったが、この記事を書くにあたって探すことを怠っていたのだ。本稿を書き直すことはやめておくが、今後、諱について書くときはそれらの議論は踏まえておきたい)


以上は素人の思い付きであって
なにか確定的なものを提示するレベルではない。
避諱の研究など各所でされているだろうから
そちらを調べるのが本筋であり、誠実な態度であろう。
だが、自分用の考察の素材とはなりそうなので、ここに書き残しておく。


今日のまとめ
・戲志才が曹操に仕えたのは192年~197年前半頃か。
・戲志才は魏の皇帝と同名だったのでは?
・戲志才の「志」は桓帝の諱である
後漢末に桓帝は「避諱」の対象でなかった可能性あり
・閻柔の弟の閻志もその傍証となるか
・殤帝も後漢末に「避諱」の対象でなかった可能性あり
・そうした避諱のぶれの原因は、傍系が本家を継ぎ、
実父に「皇」を贈って、正統を干犯したためではないのか
(実父の系統の方が代わりに避諱の対象となっていったのでは?)