正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

曹操が選んだ4人の侍中(王粲、衞覬、杜襲、和洽)

213年に魏公国が発足した頃の
曹操配下の就いた官職はある程度わかっており
そこから色々と推測できる。

 

尚書台にはその長官の尚書令に荀攸がおり
尚書僕射、尚書には毛玠、涼茂、崔琰、張既が置かれ
彼らが魏公国の運営メンバーと言えよう。

 

六卿には袁渙、鍾繇、國淵らがおり
尚書メンバーに負けないだけの実力者と名望家が任命された。

 

同時に抑えておきたいのが侍中である。
侍中は君主に近侍し助言する職である。

 

かつて戲志才が死去した際に
曹操は「その代わりとなって計略を相談できる者」を欲し、
荀彧が郭嘉を推薦したという事例がある。
曹操は基本的にはワンマンであり、それだけの能力があるが、
人の意見を無視するタイプのワンマンではなく
適切な助言が出来る者を常にそばに置いた。

 

魏公国が発足した頃、
曹操配下で最大の智者は荀攸であるが、
彼は発足したばかりの組織を運営する責任者となった。
毛玠も人事の責任者の位を継続して尚書台に入り、
鍾繇は法のスペシャリストとして大理に就いた。
賈詡は外様としての敬意もあるのか
引き続き後漢の臣「太中大夫」から変わっていない。

 

董昭についてはよく分からない。
これは別の機会に考えよう。

 

侍中に戻る。
つまり曹操陣営の幹部が魏公国の運営に参入する中で
曹操が手元に残し「相談相手」としたのが
王粲、衞覬、杜襲、和洽の4名ということになる。

 

侍中になる前の彼らの職は
王粲が丞相軍師祭酒、
衞覬が後漢尚書
杜襲が丞相軍師祭酒、
和洽が丞相掾屬、である。

 

王粲は文人としてのイメージが強いが、
彼の売りは博覧強記、卓越した記憶能力である。
言わば「生ける百科事典」として侍中に選ばれた。
そして衞覬と共に「制度」を担当した。

 

この「制度」というのは近代の新語かと思っていたが
三国志原文にも頻出しており
社稷制度、朝廷制度のような書き方なら分かりやすいのだが
「制度」単体で書かれることが多い。
だが「魏公国の諸制度」というような意味だろう。

 

衞覬は明帝の時代に「著作」を担当し
「魏官儀」を作成したほか、著述數十篇をした。
彼も王粲同様にその博識さを買われたのだろう。
漢魏禅譲の際には後漢の侍郎に就いて
それを推進し、詔勅文も彼の手によるものである。
もっとも衞覬はそれだけの人ではなく、
関中諸侯対策にしばしば献言をしている。
衞覬の詳細は別の機会にまたまとめよう。

 

さて、この2人が魏国の設計のため側に置かれたとして
残りの2人、杜襲と和洽はちょっと立場が違うように思う。

 

杜襲伝に面白い記事がある。

(拙訳)
王粲は「彊識博聞」であったため、
曹操が出かける際にはその車に同乗することが多かった。
だが、尊敬を受けた点では和洽と杜襲に及ばなかった。
かつて杜襲がひとりだけ曹操に謁見してそれが夜半に及ぶと、
王粲は競争心の激しいたちであったので
「公は杜襲と何を話しておいでだろうか」と落ち着かなかった。
和洽は笑って「天下のことはいくら話をしても尽きません」と答えた。


このような記述があるから、正史三国志を読むのは楽しい。
さて、ここは和洽のユーモアを真に受けず、
実際、曹操が杜襲と何を話していたかを考えよう。

 

私はそれが軍事のことではないのか、と思う。
杜襲は潁川の人で、同郡の陳羣、辛毗、趙儼と共に
若くして名を知られた。
その後、荊州疎開したが、
曹操が司空になった際に帰郷してこれに仕えた。
曹操は杜襲を南陽郡の西鄂県長とした。
これは張繍が統治した領域にあった県だろう。
201年、劉表は西鄂を攻撃し杜襲は敗走したが
この小県の悲惨な戦いぶりは一読の価値がある。
その後、司隸校尉の鍾繇の幕僚となり、
曹操の軍師祭酒へ昇進する。
この間、杜襲の働きぶりはよく分からない。
だが、彼のその後の官位の遷移から想像できることがある。

 

侍中となった杜襲はしばらくして丞相長史を兼任し、
張魯討伐に従軍したあと、現地に留まって「督漢中軍事」となった。
漢中が敗れて曹操と共に帰還すると
今度は長安に留められて「留府長史」として関中の責任者となった。

 

曹丕の時代には督軍糧禦史,督軍糧執法,尚書と異動を続ける。
このあたりは別の機会に考察する。
明帝の時代には大將軍曹真の軍師、
ついで曹真の後任の司馬懿の軍師となった。

 

やはり杜襲の才能は軍事に通じたところにあり
それは奇策を発想する能力なのか、軍政面の実務能力なのか不明だが
そこを期待されて曹操の「初代侍中」になったのだと推測する。

 

さて、最後のひとり、和洽がちょっと分かりにくい。
あまり漢字の読みのことに深入りしたくないが
漢音で和=カなので、カコウと読むのが正しいのだろうか。

 

和洽は汝南の人で、やはり荊州疎開したのだが
曹操に帰伏したのは劉琮降伏のタイミングである。
もっとも和洽は劉表親子には仕えていない。
彼らに仕えて、さらに劉琮に降伏を勧めた王粲は
その時に関内侯に封じられたが
和洽はいわば「野良」である。
その和洽は若い頃、孝廉に推挙され、
大將軍に招聘されている(が、応じなかった)。
この大将軍は何進であろう。
であれば、他の侍中より少し年上、
165年くらいの生まれだろうか。

 

※王粲は177年生まれ。
杜襲は不明だが、彼と同世代と思われる趙儼が171年生まれ。
衞覬も不明だが、曹操が司空になった際の辟召が初めてなので
170年以降の生まれではないか。

 

さて、「野良」の和洽だが、
曹操に仕えて丞相掾屬となり(208年頃)、
213年には侍中に抜擢された。
彼のどこが評価されたのか。

 

丞相掾屬時代には、人事担当の毛玠、崔琰が
節倹重視の登用を行っていたのに対して
もっとバランスをとるべきだと進言している。

 

また、侍中になってからの進言を見ると
毛玠が失脚した際にこれを擁護している。
彼の進言はいつでも論理明快である。
曹操はこれをしりぞけるが
それでも和洽は引き下がらず、
それこそ横暴な君主に対して
「ロジハラ」とでもべき態度で抗弁した。
それでも曹操は進言を容れなかったが。

 

人には天使と悪魔が住み着いているような比喩があるが
もしかしたら和洽は「天使のささやき声」担当だったのかも知れぬ。

 

のちに和洽は侍中から郎中令に転任となる。
毛玠の件で曹操に嫌われたとは思わない。
初代郎中令は袁渙である。
おそらく袁渙の死後、少しの間を王脩が担当し、
217年の中ほど頃に和洽が就任したと推測する。
郎中令(=光祿勳)は宿衞宮殿門戶を司るということで
どれほどの実務があったのかはよく分からないが
清廉潔白な人物が起用されており
杜襲、和洽が曹操に礼遇されていたこと、
袁渙もまた曹操からおおいに敬意を持たれていたこと。
こうしたことを考えると、やはり和洽は「良識」担当だったと思える。

 

和洽は毛玠、崔琰の人材登用に苦言を呈したが
このバランス感覚もまた袁渙に通じる。

 

和洽は郎中令(=光祿勳)を長く勤めて
曹叡の時代まで至るが、
曹丕の時代にはまったく存在感がない。
もしかしたら和洽の「良識」は
曹丕には不要だったのかも知れない。

 

曹叡時代には今度は武帝(=曹操)を例に出して
節倹を勧める進言を残しているが、
これは考えようによってはドラマチックな話ではある。
その後、太常に転任するが、清貧の暮らしぶりであった。
私の推測では没年は235年前後頃である。

 

その孫は晋書に伝のある和嶠で、彼も名臣だが
祖父とは違い、蓄財の癖があったというのは面白い。

 

※和洽は漢中廃棄を早くから進言しており、
和洽伝に残る他の進言とは趣きが異なる。
今回の和洽=良識担当という決めつけだけでは
考察が不十分な点は承知している。

 

さて、侍中のメンバー変遷を最後に見ておく。
まず215年に杜襲が抜け、
私の推測では後任は桓階。
217年には王粲が死去し、和洽も異動となるが
後任は陳羣だろうか。
そして桓階も曹操の時代の末には
尚書に異動しているようだ。
となると、最後の頃は侍中としてはっきりと分かるのは
衞覬と陳羣の2名である。
残り2名は史書に名前の残らない程度の人物だったのか
あるいは誰か著名人が侍中になっていたのか
あるいは2名体制だったのか。

 

2名体制などあり得ないように思うのだが、
この頃は丞相主簿のメンバーが逸材揃いで、
蔣濟、賈逵、楊脩、王凌の4名と思われる。
そして丞相長史は劉曄である。
曹操の相談相手は彼らに代わっていたのかも知れない。

 

今日のまとめ
曹操の初代侍中は王粲、衞覬、和洽、杜襲
・彼らが曹操の相談相手となった(213-217頃)
・王粲は博覧強記の人で、魏公国の制度を作った
・衞覬も同様。
・杜襲は軍事のスペシャリスト
・和洽は良識担当