正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

荀攸と郭嘉の合流時期

個人的に意外と把握していなかった、
荀攸郭嘉の合流時期を確認しておこう。


三国志演義を振り返ると
旗揚げ時期のメンバーは
陳宮夏侯惇夏侯淵曹仁曹洪、樂進、李典。

 

このあと、青州黄巾を平定して兗州を支配すると
一気に人材を獲得する(192年末~193年初頭頃)。
それが以下のメンバーである。
荀彧、荀攸、程昱、郭嘉劉曄、滿寵、呂虔、毛玠、于禁典韋

 

史実では、荀彧はこの少し前、曹操が東郡太守になった頃に
合流しているはずである。
そして問題なのは、荀攸郭嘉劉曄なのだが、
不思議なのは劉曄だ。
劉曄は淮南人だが、実際に曹操に仕えるのは
209年頃ではないか。
演義では郭嘉劉曄を推薦したことになっており、
その劉曄はなぜか兗州人の滿寵、呂虔を推挙している。

 

実際に曹操兗州人以外の人材を得ていくのは
196年に献帝を奉戴し、司空となって以降である。

 

曹操が司空となり、荀彧が尚書令となった頃だろうか。
「誰が卿の代わりに我が謀を為す?」と曹操が聞くと
荀彧は「荀攸鍾繇」と答えた。
また、謀臣の戲志才が亡くなると
荀彧は郭嘉を勧めた。

 

先に郭嘉から見ていこう。
郭嘉袁紹に仕えていたが、
見切りをつけてそのもとを去った。
もし故郷に帰ったのだとすれば
曹操が潁川を平定した196年以降だろうか。
この後、曹操と面会すると、司空軍師祭酒となる。
武帝紀によれば軍師祭酒を置いたのは198年1月頃。
郭嘉の功績が史書に書かれるのは
198年後半の呂布討伐からである。
では、郭嘉曹操に仕えたのは198年1月頃なのか。

 

しかし郭嘉が死去した時、
曹操の上表文は「郭嘉は従軍すること11年」と言っている。
207年の没年から逆算すると、
197年に出仕したと考えられる。
つまり197年の曹操に仕え、
当初の官名は不明であるが、
198年に軍師祭酒に異動した、ということなのか。
軍師祭酒の設置は197年ということはないのか。
また、197年の何月頃から仕えたのか。

 

次に荀攸を考える。
196年頃、荀攸荊州疎開していたが、
曹操に招聘され、(司空)軍師となる。
最初の活躍は、198年春の張繡との戦闘である。
こちらも正確な出仕時期が不明。

 

では曹操の司空就任以降の時系列を確認する。

 

196年10月:司空になる
197年1月:張繡の偽降(?)により敗北。許都に帰還。
197年9月:袁術の侵攻を撃退。橋蕤らを斬る。許都に帰還。
197年11月:荊州に侵攻し、劉表軍を破る。
198年1月:許都に帰還。
198年3月:張繡を包囲。
198年5月:援軍に来た劉表を破る。
198年7月:許都に帰還。
198年9月:呂布討伐へ

 

どうしても司空就任直後に2人が出仕したイメージもあるが
やはり197年1月の張繡への敗北の時はいなかったのだろう。
ではその直後、197年に夏頃には二人は合流したのか。
郭嘉はおそらく故郷の潁川郡陽翟県にいた。
許都の近郊であり、
荀彧の勧めがあればすぐにでも会えたはずだ。
それがなかったというのは、
そもそも戲志才の後任としての推挙であったのだから
戲志才が死んだのが197年夏頃なのかも知れない。
あるいは郭嘉袁紹に見切りをつけて帰郷したのも
意外と遅く、197年夏頃なのかも知れない。

 

荀攸荊州にいた。
決して遠くない。
曹操が司空になると、荊州疎開していた者のいくらかは
帰郷し、曹操に仕えることになった。
杜襲と趙儼がそうである。
だが荀攸の場合は少し事情が異なり、
そもそも蜀郡太守に赴任すべきところを
道路が断絶、という理由で荊州に留まっていた。
そのため、曹操が司空になったとて
帰郷する大義名分はない。
「戲志才の後任」の郭嘉とは違い、司空就任直後に
荀攸を招聘しようとしたはずだが
呼び寄せるのに時間が掛かったのか。

 

そして興味深いのは、
荀攸の功績として記述される、建安三年(198年)の張繡戦である。
この時、曹操荀攸の持久策を退け、急進策を取るが
戦況は劣勢となってしまう。
もしかしたらまだ荀攸が信頼されていなかったという事か。

 

197年の対袁術、対劉表の戦いでは
荀攸がまだ不在であったか、
あるいは貢献度が高くなかったということだろうか。

 

以上を考えると、
荀攸郭嘉の合流は197年の中盤以降ではないか。
荀攸郭嘉が活躍を始めるのは198年以降である。

となる。

 

曹操は194年、陳宮らの反乱により苦境に陥った。
197年1月には、張繡の攻撃にあい、息子を失った。

 

だが、この時には荀攸郭嘉はいなかったということだ。
逆に言えば、この2人を192年に合流させた演義
我々の思考に多大なる誤解を与えたかも知れない。


そう、
曹操陣営の中で最大の策略家は賈詡ではないか」という
その錯誤である。

 

もちろん賈詡は卓越した智者であり、
当時の最大の「軍師」の可能性もあるが
賈詡曹操を破った時、
そこに荀攸郭嘉はいなかったという可能性は
抑えておきたい。