正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

應劭(応劭)は入朝したのか

後漢書には應奉伝がある。
應奉は汝南南頓の人で、150年代~160年代に
武陵蠻に反乱の平定に功績があった。
党錮の禁が起こると(166年)引退し、著作活動に専念した。


應奉の子が應劭である。
應奉伝に続いて應劭の事績が記述されているが、
記述量は父親よりも多い。


應劭は父親同様に博覧強記の人であり、
始めに車騎將軍の何苗の掾になったというが、
これは時期的に少し疑義がある。
何苗が車騎將軍となったのは時期的にもっと後であろう)
185年、韓遂らの反乱鎮圧に鮮卑を徴発しようという案があり、
應劭はそれに反対したようで、その議論が残っている。
そして朝廷は應劭の意見を採用した。
189年、泰山太守となり、191年には青徐黄巾の侵入を撃退した。
のちに領内で曹操の父が殺害される事件が起こると
曹操を恐れて袁紹にもとへと逃げた。
そのあと應劭は著作に励んだようで、それがために歴史に名を残した。


196年には律令を刪定して献帝に献上し、喜ばれた。
これが河東安邑県に滞在時のことか、
許都に移ったあとの時期のことかは判然としない。


197年には詔勅により「袁紹の軍謀校尉」に任命されたという。
袁紹は当時、大将軍になっていたが、
 大将軍に軍謀校尉という属官があったのか
 大将軍の軍謀掾の間違いなのかは分からない。
 大将軍の属官を詔勅で任命するのは不思議な気がするが、
 霊帝末年の「中軍校尉」「典軍校尉」のようなものなのだろうか。

この頃、「漢官儀」を著して、朝廷制度の整備に寄与したという。
また、「風俗通」など著述は136篇あり、後に鄴で死去した。


武帝紀注の世語には「後太祖定冀州,劭時已死。」と書かれる。
鄴陥落は204年8月だが、
冀州全域の平定は翌年1月の袁譚滅亡を指しているだろうか。
あるいはその少し後の張燕の降伏を指すだろうか。
普通に考えれば、鄴陥落の時にはすでに死んでいたということだろう。


では、袁紹のもとに逃亡してから、ずっと鄴にいたのだろうか。
というのも、朝廷に大きく貢献していながら
入朝することはなかったのと疑問を抱く。


中文Wikiには「應劭入朝制定典章。後卒於鄴縣。」と書かかれている。
應劭は「入朝」していた?
その論拠は何かあるのだろうか。
私も應劭入朝の痕跡を探していた時期がある。
しかし何も見つけられなかった。
著述に励み、朝廷の制度や儀礼の回復に寄与しながら
それでも入朝しなかったのは何故か。
袁紹が彼を手放さなかったのか。
あるいは、曹操への警戒心が解けなかったのか。
もっとも、弟の應珣は曹操に仕えたようで、司空掾となっている。
そして、應珣の子の應瑒は建安七子のひとりであり、
應瑒の弟の應璩も文人としての才能があり、
魏の高官を務め、252年まで生きた。


なんか名前からすると應珣、應瑒、應璩は兄弟なのではないか、
という気もしてくる。
兄:應劭、字は仲遠
弟:應珣、字は季瑜
弟子:應瑒、字は德璉
弟子:應璩、字は休璉


應珣の字は季瑜ではなく、季璉なのでは?
などとも考えたが、季=末っ子(あるいは四男?)なので、
應瑒らの兄という可能性はあるのかどうか。


余談を続けてしまうと、
魏代以降、子孫が栄えたのは應璩の家系であり、
應璩の孫の應詹は晋書に伝がある。
両晋交代期の人物である。
西晋が滅んだのも、東晋がそのスタートで躓いたのも
彼のような人物を重用できなかったからだと見ている。


本題に戻る。
應劭は入朝したのかどうか。
はっきりとしたことは言えないが、ヒントはある。
隋書には下記のような記述がある。


漢書一百一十五卷漢護軍班固撰,太山太守應劭集解。


後漢太山太守應劭集二卷


つまり隋書の書かれた唐初において、
應劭の最終的な肩書きは
太山太守(泰山太守)としか分からなかった、ということだ。
時期的に後となる「軍謀校尉」としなかったのは
軍謀校尉の官位が低いとみなされたのか、
軍謀校尉についてよく分からず無視したのか、
あるいは「太山太守」が死後の追贈官という事もあり得るのか。
もっとも後漢書では追贈官の記載はないが。


贈官という可能性を無視して考えると
應劭の著作が多く現存していた唐初においても
「太山太守」以上の肩書きは分からなかったということだ。


もし入朝していたら
入朝後の肩書きの痕跡が著作物に残る可能性もあるだろう。
それがないということは、やはり入朝せずに死亡したのかも知れない。


小ネタをダラダラと引っ張ってしまった。
次回は陳珪の予定。