正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

沛国相・陳珪に関する疑問

三国志を読んでいて、さっぱり分からない記述にはよく出会う。
その場合はそれをノイズとしていったん無視してしまうか、
あるいは誤謬の混入を疑い考察するか。
私にとって、「袁術が陳珪の子を人質にした」という記述も、
またそのうちのひとつであった。


それは三国志袁術伝に出てくる。
記述の順番としては以下の通りである。


袁術が刺史を殺害して揚州を乗っ取る
長安の李傕政権により左將軍に任命される
長安からの使者であった太傅の馬日磾を拘留する
・沛相の陳珪に協力を要請する
袁術が陳珪の子(陳應)を人質にする
・陳珪が拒絶する
・195年冬、天子が東遷の道中で敗北する
袁術が皇帝即位の是非を部下に問う


この袁術と陳珪の逸話は後漢書も通鑑も採用していない。
やはり「よく分からない」からなのか。
おそらく、一番分からないポイントは、
なぜ袁術が陳珪の子を人質に出来たか、ということであろう。


原文を確認していく。


>時沛相下邳陳珪 ,故太尉球弟子也。
>術與珪俱公族子孫,少共交游,書與珪曰:
>「昔秦失其政,天下羣雄爭而取之,兼智勇者卒受其歸。
>今世事紛擾,復有瓦解之勢矣,誠英乂有為之時也。
>與足下舊交,豈肯左右之乎?若集大事,子實為吾心膂。」


陳珪は太尉の陳球(118-179)の弟の子である。
袁術とは「公族」の子弟同士であって、若くから交流があった。
曹操は155年生まれだが、
陳珪、袁紹袁術は140年代前半~中頃の生まれであったか。
袁術は当時の情勢を秦末の群雄割拠と重ね、
陳珪が自分に帰服するように書を送った。


これに対する陳珪の反応は不明で、こう続く。


>珪中子應時在下邳,術並脅質應,圖必致珪 。 


陳珪の中子の陳應は下邳に滞在していて、
袁術は脅してこれを人質とし、
陳珪を絶対に帰服させようとした。


このあと、陳珪の反応が明らかになる。
陳珪は返書してこれを拒絶した。


>珪答書曰:「昔秦末世,肆暴恣情,虐流天下,毒被生民,
>下不堪命,故遂土崩。今雖季世,未有亡秦苛暴之亂也。
>曹將軍神武應期,興復典刑,將撥平凶慝,清定海內,信有徵矣。
>以為足下當勠力同心,匡翼漢室,而陰謀不軌,以身試禍,豈不痛哉!
>若迷而知反,尚可以免。吾備舊知,故陳至情,雖逆于耳,
>骨肉之惠也。欲吾營私阿附,有犯死不能也。」


陳珪は拒絶の理由として、
情勢が秦末とは異なること、曹操が漢室を補佐していることを挙げる。


さて、ここから色々と考えていく。
後に呂布が下邳で籠城した際、やはり陳珪の子を人質にした。
これは特に疑問はおきない。
だが袁術は下邳を支配したことはない。
なぜその袁術が、下邳にいた陳應を人質にできたのか。
袁術と言えば、陳王の劉寵を暗殺したこともある。
それから想起するに、袁術は他勢力に間者を送り込んで
工作行為をするのに長けていたのだろうか。


おそらくこのあたりのことが思い込みとなり、
私を混乱させていた。


後漢書によれば陳球は下邳国淮浦県の出身である。
陳應がいたのは下邳県ではなく、淮浦県ということか。
淮浦の位置を確認する。


※下邳と広陵の歪な郡境は納得しがたいが、
いったん考察はやめておく。
また、盱眙や淮陰の位置も怪しいが
東西の位置関係だけ分かれば、今回は良しとする。


こうして見ると、袁術が淮浦を支配できた時期があることに気づく。


196年、袁術は徐州に侵攻し、劉備と戦った。
その戦場は盱眙や淮陰と書かれる。
しかし下邳で反乱が起き、呂布が徐州を乗っ取る。
劉備軍は飢えに苦しみながら海西に撤退する。
この時、劉備軍を救援したのが麋竺である。
麋竺陶謙時代の末に徐州の別駕從事であり、
劉備時代においても別駕であったと推測する。
であれば、留守役として下邳にいた可能性があろうが、
反乱を受けて故郷の朐県に避難していたか。
そこで部曲を糾合し、朐県からほど近い海西に駆け付けた。


なお、海西県の位置は中国歴史地図集を参考にしている。
水經注図には記載はなく、確証は持てない。
が、もとは東海国に属したということで、かなり北部にあったろう。


袁術軍が劉備軍を追撃したとは書かれていないが、
海西の手前までは制圧した可能性がある。
であれば、淮浦県を陥し、陳應を人質にできた。


これは、下邳県に間者を送って陳應を拉致したという想像よりは
いくらか真実味があると言えよう。

 


※先主伝注の英雄記によれば、仔細はいくらか異なる。
反乱を知った劉備は下邳への帰途につくも、兵が離散し、
東の広陵へと転進するも、袁術に敗れたという。
この広陵とは海西県のことを指すだろうか。
いずれにしても、袁術が淮浦県を制圧した可能性と矛盾はしない。



時期的にはこれは196年のことであった。
袁術伝では195年以前のことのように書かれるが
その記述の順序に錯誤があったということだ。


時期に関してはそれを裏付ける証拠も別に見つかった。
それは陳珪の返書の内容である。
そこでは曹操が漢室を補佐し、
乱世を収束しつつあることを書く。


これはやはり196年のことである。
そして、返書に書かれていないことにも注意が必要だ。


陳珪は陶謙劉備呂布曹操に仕えたと知られている。
いや、実は陶謙劉備との関係性は不明だ。
だが、子の陳登は陶謙劉備にも仕えており、
やはり陳珪も両者に仕えたと考える方が自然と思う。


そして、返書には劉備呂布も出てこない。
もし呂布に仕えていた時期であれば、
当然、呂布の名も出して拒絶するのが自然である。
劉備にしても同様だ。
だが、出てくるのは曹操の名前だけだ。
それは陳珪が曹操だけを高く評価していたからというより、
曹操以外の名前を出せない時期だったからだ。


つまり、劉備が敗北したあとの時期であり、
陳珪が呂布に仕える前の時期であった。


それを示す根拠がある。
それは書面中の「曹將軍」という呼び方である。
この「曹將軍」はなかなかレアである。
曹操が司空となった後、曹操は「曹公」と呼ばれる。
兗州刺史となった当初は「曹兗州」「曹使君」である。


曹操の肩書きの推移を確認する。
196年
6月:鎮東將軍となる。
7月:天子が洛陽に帰る。
9月:天子が曹操の陣に至る。曹操が大將軍となる。
10月:司空,行車騎將軍となる。


鎮東將軍となる少し前に建德將軍に任命されているが、
おそらくその頃は「曹兗州」と呼ぶ方が適当かと思われる。
しかし、鎮東將軍というのは明らかに「上将軍」であり、
もはや「曹兗州」と呼べなかったのではないか。
であれば、6月~9月までが「曹將軍」だったのではないか。


ところで私は根拠を示さずに推測を書くことがある。
それは本当に根拠がない当てずっぽうであるときも、
本当は根拠があるが書くのを割愛している時もある。


袁術の徐州侵攻を「196年の後半」と過去に書いた。
通鑑では196年前半の位置に書かれているのに、である。
これには理由がある。
この戦いの最中、曹操の上表により、
劉備が鎮東將軍に任命されるからである。
(※★追記。通鑑では確かに前半の位置に書かれている、というか、後半のボリュームが多いためにそう見える。が、正確に言うと、6月の記事(天子が聞喜県に至る)と、7月の記事(天子が洛陽に至る)の間に置かれている。196年前半の位置に書かれている、としたのは不正確であった)


三国志先主伝:
袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰
>曹公表先主為鎮東將軍,封宜城亭侯,是歲建安元年也。


劉備袁術の戦いの最中、曹操劉備を支援する必要があった。
その頃、曹操は天子を奉戴した。
あるいは、天子に意見が通りやすい状況にあった。
であるからには、天子の洛陽帰還後(7月)以降だろう。


曹操の鎮東將軍が、劉備へと受け継がれたと考えるなら、
曹操の大将軍着任(9月)以降ということになる。


こうして整理してきた時系列には文句のつけようもないと思うが、
問題がないではない。
それは呂布伝注の英雄記の記述である。
そこでは呂布が下邳を乗っ取った事績につづけて
196年6月の出来事として郝萌の反乱が書かれる。
ここだけ見れば、196年前半から袁術の徐州侵攻があり、
その後に下邳乗っ取り、つづけて劉備への鎮東將軍任命があることになる。


可能性のひとつとしては、
下邳を失ったあとの劉備に対し
鎮東將軍任命があった、というものがある。
下邳陥落後であれば任命は遅きに失したと言えるが、
情報伝達のタイムラグがあったのかも知れない。


可能性②は、英雄記の記述の順番の誤りである。
196年6月に郝萌の反乱はあったが、
その後に下邳の乗っ取りがあった。
これは英雄記の問題ではなく、
裴松之の注の記載順の問題なのかも知れない。


最後の可能性③は、英雄記の記述内容の誤りである。
196年6月ではなく、197年6月であるとか、
196年10月の可能性はゼロではない。
建安元年と建安二年、
あるいは六月と十月の転写ミスは充分あり得るだろう。


いずれにしても、陳珪が返書をした時期自体は揺るがない。
曹操が天子を輔弼し、上将軍であった時期。
196年秋ごろが最有力であろう。
このあと、陳珪は呂布に「仕えた」。
一方で、呂布劉備を小沛に配置した。
小沛=沛国沛県のことである。
その間、劉備と陳珪の人間関係は不明である。


197年、呂布曹操の関係が急速に改善される。
その中で曹操は、陳登を広陵太守に任命し、
陳珪の秩禄を中二千石に引き上げる。
つまり、陳珪は呂布に仕えても
沛国相であり続けたのだろう。
ただし、まるで呂布の側近であるかのように史書に出てくるので
滞在していたのが沛国なのか、下邳なのか、少し疑問だ。


呂布は198年冬に敗北するが
その後の陳珪の動向も生死の状況も不明である。
功績を考えれば、入朝して高官に就任してもおかしくはない。
ただ、曹操は東方の統治を有力者に委任したので
引き続き沛国を預かった可能性もある。
その場合、劉備の反乱に対して陳珪がどう反応したかは
気になるところである。


さて、次に沛国相に就任した時期を考えておこう。


陳珪より前の沛国相には袁忠がいた。
袁紹袁術とは「はとこ」にあたる。
袁忠は192年の陶謙の協力者として名が出てくるが、
後に江南に避難し、會稽太守の王朗を頼った。
次に交州に移った。
もともと曹操に恨みを買っていた人物である。
193年秋の曹操の徐州侵攻を契機に
職を去った可能性が高いだろう。


であれば、陳珪の沛国相の就任は最速でその頃か。
陶謙の末年(194年)に劉備豫州刺史として小沛に駐屯するが、
それと同時期に陳珪も沛国相となったと考えたくなる。


その場合は少し問題がある。
過去の記事で根拠を示さずに推測を書いたことのひとつで
豫州の情勢がある。
195年、袁術豫州に侵攻していた。
少なくとも陳国には侵攻している。
潁水ルートであれば、揚州から汝南を突っ切って
陳国に達することは可能ではある。
しかしもう1つのルートとして濄水ルートがあり、
こちらは一部は沛国を通過することになる。
そして195年末には濄水流域の武平県で
曹操軍との衝突が起きている。
また、刺史の治所である譙県も濄水ルートにある。




もし陳珪がこの時すでに沛国相であったのなら
このタイミングで帰服を呼びかけるのが自然であろう。
だとしたら、陳珪の着任はもっと後なのだろうか。
つまり195年末に袁術豫州侵攻はいったん頓挫し、
その軍勢は豫州南部に引き上げたことだろう。
その後に陳珪は着任したか。
そして196年、袁術は矛先を徐州に変えた。
そして旧知の陳珪に誘いの書を送りつつあるうち、
その子を下邳国淮浦で手に入れるに至ったのか。


あるいは陳珪はやはり194年頃に赴任していた。
195年に袁術豫州侵攻するに際し、
陳珪を帰服させんと書を送った。
それが袁術伝に記載の書であった。
しかし陳珪はそれに返事を出さなかった。
袁術は侵攻ルート上の沛国各県については攻撃しつつも
(たとえば龍亢県)、陳珪自体は捨て置いていた。
主目的は陳国(劉寵)や譙県(郭貢)であった。
その後、陳珪の子を手に入れ、あらためて脅迫したのか。


これに関連してもう一つ考えることがあるとしたら、
それは沛南部都尉のことである。
呂布敗北後、曹操は袁渙を沛南部都尉に任命した。
もしこの沛南部都尉がもっと前から存在していたとしたら、
袁術がその領域を横断しても
陳珪には関係のないことだったのかも知れない。


この沛南部都尉は後に譙郡が建てられるとき、
その土台となったはずだ。
晋書によれば、譙郡は魏が設置した。
一方で曹操が設置したとも書かれ、
後漢末の設置なのか、魏代なのかは不明だ。
ただ、曹氏の故郷でもあるためか、
その版図はきわめて大きい。
西晋代では郡境は大きく修正された。
下記の地図は中国歴史地図集を参考にしたものである。


中国歴史地図集とてどれほど正確かは分からないが
今回は特に検証はしていないので
あくまでも参考程度である。
が、両郡が西晋代に東西に綺麗に並ぶのは興味深い。
豫州はこの地図に載せた以外にも
たくさんの河川が西北から東南に向かって走っている。
となれば、地理的結びつきはその河川に沿ったものであり、
沛郡と譙郡が東西に並ぶのは自然なことかも知れない。


つまり後漢末の沛南部都尉とは
西晋の譙郡のような形をしており、
袁術は北上する際にここだけ攻撃した。
であれば、沛本国(陳珪管轄)は無関係だったのかも知れない。


さて、まとめを書いて終わりとする。
(すべて推測を交えている)


袁術の195年の豫州侵攻時、陳珪が沛国相であったかは微妙
・沛南部都尉の設置状況もそれに関係する
袁術が陳珪の人質を取ったのは196年の徐州侵攻時か。
・陳珪の中子の陳應は下邳国淮浦県にいたか。
劉備の敗走により、袁術は淮浦県まで制圧した。
・陳珪は袁術の要請を拒絶したのは196年の秋頃。
・それは曹操が鎮東将軍ないし大将軍であった頃