正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

私は袁渙が好きだ

袁渙は陳郡扶樂県の人である。郡の功曹を経て公府から召され、侍御史に移った。譙県令に任命されたが着任せず、豫州刺史の劉備には茂才に推挙された。後に江淮間に避難して袁術に仕えることになったが、いつも正論を吐いた。呂布袁術を阜陵で破ると袁渙は呂布に捕らえられ、仕えることになった。呂布劉備を誹謗する檄文を書かせようとしたときは拒絶した。呂布敗北後、曹操に仕えて沛南部都尉となり、屯田制について献言した。梁相に移り、病で官を去ったあと、諫議大夫に任命され、丞相軍祭酒となった。魏公国が建てられると郎中令,行御史大夫事となり死去した。子孫は東晋以降、南朝で栄えた。

袁渙は「袁煥」が正しいのではないかという議論があるが、ここでは措く。

袁渙の父の袁滂は司徒であり、曾祖父の袁良は梁相。
「四世三公」を輩出した汝南汝陽の袁氏には及ばないが、
袁滂の妹は蔡邕の母であり、袁渙自身は許靖と交流があるなど
士族層の期待のホープだったろうか。
生年132/133年頃の蔡邕といとこであるというのは、かなり違和感がある。
袁滂の晩年の子だったということだろうか。
曹操から「親舊(=友人)」として敬愛された袁渙は曹操(155年生)と同世代、
あるいは荀彧(163年生)の世代であったろうか。
なお、袁渙の從弟の袁霸も魏初の重要人物である。

郡の功曹になったというが、ただしくは陳国の功曹だろう。
この頃、漢の諸王は軒並み存在感がないが、唯一の例外は陳王の劉寵である。
その劉寵に仕えたはずだ。

公府の属官、侍御史となったのは董卓の乱以前だろう。
その後の数年は不明だが、おそらく何進の敗北か董卓の政権掌握に前後して官を去ったのか。もし故郷の扶樂県に戻ってきていたのであれば、陳王寵に起用されなかったのは少し不思議である。あるいはその清廉な人柄が陳王寵に嫌われたのか。
あるいは陳王寵に仕官したが、記述されなかっただけか。

劉備により茂才に推挙されたのは194年頃だろう。
このあと、江淮間に避難したとだけある。
そのため、私は袁渙は劉備には仕えなかったのだとずっと思っていた。
しかし呂布の命令を拒絶した時、袁渙はこう言っている。
「且渙他日之事劉將軍,猶今日之事將軍也」
(私が以前に劉将軍に仕えたのと同じように、いま将軍(=呂布)にお仕えしているのです)
これを素直に読めば、袁渙は茂才に推挙されたあと、豫州の何らかの官に就いたはずだ。陳羣と同じように。
少なくとも、徐州入りする前までは劉備に仕えたのは確実と思われる。


ではその後、劉備と袂を分かったのはいつだろうか。

 

可能性①
袁渙は劉備と共に徐州入りし、劉備袁術撃退に従軍。
呂布が徐州を乗っ取り劉備が敗走すると、袁渙は袁術軍に捕らわれた(または袁術軍に身を投じた)。

 

可能性②
袁渙は劉備と共に徐州入りし、劉備袁術撃退に赴くと、袁渙は留守を守った。
あるいは地方の太守、県令などとして後方にいた。
呂布が徐州を乗っ取り劉備が敗走すると、袁渙は呂布に仕えずに、江淮間に避難した。

 

可能性③
袁渙は徐州入りせず、劉備の後任の豫州刺史(誰か不明)に仕えた。
その後、豫州が混乱する中で江淮間に避難した。

 

可能性④
袁渙は徐州入りせず、劉備の後任の豫州刺史にも仕えず、江淮間に避難した。

 

以前は④だと思っていたが、いまは④の可能性は低いと思っている。


さて、袁渙は江淮間にあって袁術に仕えた。
その際には常に正論でもって袁術に諫言したという。
この頃の袁術麾下の「名士」たちの動向については今回の記事では掘り下げない。

気になるのは、その後に呂布に仕える契機である。
呂布袁術を阜陵で破った際、袁渙は袁術側で従軍しており、呂布に捕らえられた。
呂布擊術於阜陵,渙往從之,遂復為布所拘留。」

 

呂布袁術の勢力圏に侵攻したのはおそらく一度だけあり
壽春に向って進軍して鍾離県まで至って帰還したという。
一方で中国歴史地図集によれば、阜陵は壽春のはるか南方、歴陽に近い位置にある。
これはおそらく後漢書の注を根拠としている。
「阜陵,縣名,屬九江郡,故城在今滁州全椒縣南。」

 

この所在が正しいのであれば、壽春侵攻と同時に阜陵への軍事行動もあったのか、
それとは別のタイミングで阜陵攻撃があったのか。
呂布の勢力圏である広陵郡の西南端から長江沿いに進軍すればそれは不可能ではない。
たとえば吳郡太守、安東將軍の陳瑀はこの頃広陵の南部におり、袁術包囲網の一翼を担ったが、袁渙は陳瑀軍に敗れて捕まったあと、呂布のもとに送られた可能性はあるのだろうか。いや、これはあまりにも想像をたくましくし過ぎたか。

単に、阜陵がもっと北方にあったか、阜陵ではなく例えば鍾離あたりとの取り違えなのかも知れない。

 

呂布が敗れると袁渙は曹操に仕え、沛南部都尉に任命される。
もともと名声も高かったろうが、劉備からの推薦もあったのかも知れない。
沛国は南北に長く伸びており、その南部はしばらくして譙郡として分離されるが
沛南部都尉の設置はその途中経過の措置であろう。
その管轄は曹操の故郷である譙県を含み、また、その南境は揚州と接する要所である。かなりの期待をしての起用だったと思われる。

 

※追記。沛南部都尉は後の譙郡そのままの領域だったかは分からない。譙郡はおそらく曹氏の故郷であることを考慮され、広い版図を持つに至った。沛南部都尉の設立時点ではその領域はもっと狭かったかも知れず、その場合は譙県を含まなかったかも知れぬ。※

 

だがその直後、劉備が反旗を翻し、小沛(=沛国沛県。沛国北部)に駐屯する。
この騒動は短期間で平定されるが、袁渙の動向は不明である。
劉備に同調して人生を変えてしまうのは東海国にいた昌豨だが
袁渙は無難に中立を守ったのかも知れない。
だが騒動が長期化していたら、旧知の劉備に同調した可能性もある。

 

さて、時代は下って魏公国が建てられると(213年)、袁渙はその郎中令,行御史大夫事となる。この行御史大夫事とは何なのか。
御史大夫的な業務をおこなった、と理解しようとしたこともあるが
自然に考えれば、郎中令を本官として、御史大夫の臨時代行を兼任した、ということであろう。
この場合の御史大夫は「漢の御史大夫」ではないはずだ。
「魏の御史大夫」であろう。
であれば、郎中令になると同時に「行御史大夫事」にもなったのか。
そこに時差があるのか。
袁渙が郎中令である一方、同じく公卿の廷尉となった鍾繇
のちに魏の相国となったが(216年)、もしかしたら袁渙もこの前後に「行御史大夫事」となったのかも知れない。

これについては色々と疑義もあろう。

そもそも袁渙が曹操政権においてそこまでの地位にいたのかの疑問もあろう。
だが私はこの時期においては、鍾繇がナンバーワン、袁渙がナンバーツーということにさほど違和感はない。
曹操が魏公国に任命される際、曹操に受任を促す臣下が列挙されている。
そのうち複数名いる軍師祭酒の並びでは

 

軍師祭酒千秋亭侯董昭、
都亭侯薛洪、
南鄉亭侯董蒙、
關內侯王粲、
傅巽、
祭酒王選、
袁渙、
王朗、
張承、
任藩、
杜襲

 

この中の「祭酒王選」はよく分からない。そもそも誤字・衍字の可能性もある。
袁渙は後半に出てくるが、これはおそらく爵位を持たないためで、たとえば傅巽は省略されているが關內侯である。

袁渙は爵位のない中では筆頭で、王朗よりも先に出てくる。
もちろんこのような史料の記載順位を絶対視することは出来ないと思うが
もし長生きしていたら、袁渙は三公候補としては華歆よりも王朗よりも序列が上だったのではないかと私は考えている。

 

最後の謎として、袁渙はいつ死んだか、である。
華歆が217年6月になった御史大夫が「魏の御史大夫」であるなら、それ以前となろう。
だがその前提に確証が持てないのが前回の記事だった。
それでも、「行御史大夫事」が正式に「魏の御史大夫」となるとしたら
それは鍾繇が相國となる216年8月前後が適当であったろうと思っている。

そして、袁渙は正式な「魏の御史大夫」となるまで生きられなかった。

鍾繇が相國となる少し前には崔琰と毛玠が失脚する事件が起き、
大理(法務大臣)時代の鍾繇が毛玠を追及している。
おそらく袁渙はそうした政治事件に巻き込まれる前に世を去ったのだろう。
もし彼が生きていたら、曹操に諫言し、崔琰の命を救うことは出来ただろうか。

 

袁渙が梁相であった頃、穀熟長の呂岐が任官を拒否した朱淵、爰津を殺害する事件が起きた。呂岐は非難されたが、袁渙は別の立場をとり、呂岐が弾劾されないよう取り計らった。これを見れば袁渙は君臣関係においてはリアリストであったかも知れない。崔琰を救う側には回らなかったかも知れない。

 

だが、それでも私は「袁渙が好き」である。

三国志を手に取り、頭の中でパズルを組み立てる歴史遊びの愉悦とは別の話である。


袁渙が劉備を誹謗する檄文を書くことを拒んだこと、
劉備の訃報(誤報)が入ったとき、袁渙が慶賀の態度を取らなかったこと、
そんな袁渙が死去したとき、曹操は公的にそれを悼むと同時に、友人として私的な「たむけ」を送ったこと。

 

袁渙伝を読むと、当時の人々の息吹を強く感じる。
正史三国志をただの史料でなく、読み物として魅力的にしているのは彼のような人物の存在である。