正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

九江郡と淮南郡(楚国とは? 阜陵国とは?)

正史三国志を読んでいて混乱することに
地名の問題があるが、
淮南郡について九江郡や楚国などと記載されるのも
鬼門のひとつであろう。

 

上記の件は端的に言えば、
同じ地域が名称を変えているというだけのこと。
基本的には
後漢時代は「九江郡」、
曹魏時代は「淮南郡」ということになる。
「楚国」については後述する。

 

今回あらためて調べて
いろいろ気づいたこともあるので
少しまとめておく。

 

この地域の出身者について
正史三国志では次のように記載される。

 

劉曄字子揚,淮南成悳人,漢光武子阜陵王延後也。
蔣濟字子通,楚國平阿人也。
胡質字文德,楚國壽春人也。
蔣欽字公奕,九江壽春人也。
周泰字幼平,九江下蔡人也。


三国志呉書(=呉志)は
陳寿が「韋昭の呉書」などをベースにしてまとめただろうから
呉の人物についてはそちらを準拠にしているのだろう、
九江郡と記載されている。

 

一方で魏の人物については淮南、楚国と
それぞれ記載されている。

 

まず、後漢時代の地図を置いておく。

 

後漢の時代、淮南へと改称された時期もあったが
九江郡と呼ばれた期間の方が長かったようだ。
動乱が始まる後漢末も九江郡の名称であった。
地図を見ると
北境の淮水沿い、南境の長江沿い、
そして西部の芍陂、巣湖周辺に県が集中している。

 

ここで考えたいのは、阜陵国という存在である。
光武帝劉秀の息子の劉延は淮陽王となった。
淮陽は後に陳国となる地域である。
が、劉延は罪を得て、阜陵王に降格され、
その食邑はわずか2県であった。
さらに謀反の疑いをかけられ、
阜陵侯に格下げされた(西暦76年)。
その時の食邑は1県だが、これは当然、阜陵県であろう。
その後ゆるされて4県を増封され、合計5県となった(87年)。
そして阜陵は「下濕」であったため、国都を寿春に変えた。
「下濕」というのは湿地帯、というほどの意味らしい。

 

その後、阜陵国の増封減封は記載されない。
その阜陵国の最後の国王の名は劉赦。
建安年間中に薨御し、子が無く、国は廃止された。

 

ちなみに曹魏に仕えた謀臣の劉曄
劉延の子孫である。

 

つまり建安元年=196年であるから
少なくともその頃までは阜陵国が存在した。
そして、寿春は阜陵国の版図にあった。
(減封されていなければ)

 

なお、後漢書郡国志によれば
歷陽が州治であったという。
州治とは刺史の治めるところ、州都とでも言うべきところ。
一方で、後漢書注の「漢官」によれば
寿春が「刺史治」である。
「漢官」は応劭の「漢官儀」のことだろうか。

 

どちらが正しいのか。
調べていくと明帝の子の劉衍は下邳王となったが
しばらく後、西暦79年に増封されて歷陽を得ている。
この時に「刺史治」が寿春に変更されたのではないか。

 

つまり刺史のいるところとして
寿春が後漢末に常に影響力を有したのは間違いないが
それは阜陵国にあったということを意識せねばいけない。

 

では九江郡はどうかと言えば、
水經注によればその郡治は陰陵県である。
袁術が揚州入りをする際の抗争に
陰陵の名前が出てくるが、
陰陵が九江郡の郡治であったことを踏まえて
いつか別の記事を書いてみたい。

 

さて、では阜陵県はどこにあったのか。
以前に袁渙の記事の際に少し触れたが、
その所在には疑義がある。

 

まず、水經注図には記載がない。
中国歴史地図集では全椒県と
ほぼくっつくように丸印が書かれている。

 

後漢書注には「故城在今滁州全椒縣南」とある。
集解が引く一統志(明代の地理書?)によれば
「滁州全椒県東十五里」とのこと。

 

だが本当に全椒県付近の可能性があるのか。
まず、阜陵国はわずか5県の版図であり、
そこに寿春と、全椒付近の地を含むとなると
かなり歪な形になって
九江郡を切り刻むことになる。
これには違和感がある。
だが、そのようなことがないとも言えない。

 

一方、下邳国が増封された際(西暦79年)にこう書かれている。

 

>以臨淮郡及九江之鍾離、當塗、東城、歷陽、全椒 合十七縣益下邳國。

 

臨淮郡=下邳国であるのだが、
それに「鍾離、當塗、東城、歷陽、全椒」を増して17県の下邳国とした、と。
この時、阜陵は1県のみ有する侯国なので
阜陵がどこにあろうとそこに矛盾はない。
だが、その8年後、増封4県となり、寿春まで有することになる。
もし下邳国がその時も歷陽、全椒を版図としており、
さらに阜陵が全椒県に隣接する位置にあったのなら
とても不自然なことにはなるまいか。

(※後漢末まで下邳国がこの17県体制だったのなら、考えるべきことがたくさん出てくる。今後の課題としたい。)

 

阜陵については晋書にも情報がある。
そこでは「漢明帝時淪為麻湖」と書かれる。
明帝の時代に「陷沒して麻湖になった」というほどの意味だ。
そのまま廃県になったのではないようだが、
それによって場所がうつされたのか。
あるいはその「麻湖」というのはどうなったのか。
調べてもよく分からない。
しかし似た事例を見つけた。
集解が引く太平寰宇記(かんうき)によれば
居巣城が陥没して巣湖になったという。
もしかしたら巣湖のハート型というのは
もとは2つの湖であって
片方は「麻湖」なのでは?
という想像を私はしている。

 

本題に戻ろう。
阜陵はどこにあったか。
全椒付近というのはとても違和感がある。
九江郡は中央部がぽっかり空いているので
そこにあってもおかしくないが、
やはり西部に位置していたのではないか。
おそらく阜陵は巣湖付近にあり、
西部の寿春、成德、合肥、浚遒、阜陵の5県が
阜陵国を形成していたのではないか。

 

阜陵県については東晋の時代に
ちょっとした要所となっている。
そちらからの考察もするべきかも知れないが
時代も違って、場所も変転している可能性があるので
今回はやめておこう。
ただしその場合でも
歴陽西方にあって矛盾はないという理解はしている。

 

次に、居巣についても少し触れておこう。
三国志にて魏の拠点となった居巣。
これは巣湖付近にあったとみて間違いないようだ。
水經注図にもそう書かれている。
だが、中国歴史地図集を見るに
後漢の廬江郡居巢県については、
舒県のはるか南西に位置しているように描かれている。
なにか根拠があるのだろうが、
そちらまでは調べ切れなかった。
ただし、三国志の時代だけを考えるだけならば
居巣の位置は巣湖付近と覚えておけばいいはずだ。

 

最後に。
「楚国」の問題である。
三国志には下記のような記載がある。

 

蔣濟字子通,楚國平阿人也。
胡質字文德,楚國壽春人也。

 

平阿や壽春(寿春)は九江郡の県である。
つまり、九江郡=淮南郡=楚国であって、
陳寿三国志魏書(魏志)を書いたとき、
楚国と改称されていたのではないか。

一方で、下記の記述もある。

 

劉曄字子揚,淮南成悳人

 

この書き分けはなんだろうか。
九江郡(=淮南郡)が分割され、
「淮南国」「楚国」が並立していたのか。

晋書にはこうある。

 

改封南陽王柬為秦王,始平王瑋為楚王,濮陽王允為淮南王

 

たしかに並立してそうだ。
そしてさらに言うならば、
楚王が存在していたのは289年~291年の短期間。
これは魏書の執筆時期を裏付けするのではないか。
そう思った。

 

だがもう少し考えねばならない。
晋書の続きを含めて書き直す。

 

改封南陽王柬為秦王,始平王瑋為楚王,
濮陽王允為淮南王,並假節之國,各統方州軍事。

 

この時、有力な皇族3名を転封し、任国に行かせたうえ、
その地にて都督としているのである。
楚王の司馬瑋は都督荊州諸軍事に、
淮南王の司馬允と都督揚州諸軍事なっている。
司馬瑋の任地が江陵なのか、宛なのか、
ちょっと調べ切れないが
この場合の「楚国」は荊州にあったと考えるのが自然だ。

 

ではなぜ三国志
「楚國平阿人」「楚國壽春人」などと書かれたのか。
もしかするとこれは、曹魏の時代の区分なのかも知れない。
その時にも「楚国」は存在していた。
曹操の息子の「楚王彪」である。
曹彪が楚王となったのは232年。
王淩の謀反に連座して処刑されたのが251年。
この間、「楚国」が存在していた。
寿春は魏の要の都市であり、
平阿は淮水以北の都市である。
この時、魏の最前線は合肥であり、
成悳(成德)は寿春と合肥の中間に位置する。
晋代には残っているものの、
他の淮南諸県同様、紛争地域として
一時的に無人状態になっていた、
場合によっては正式に廃県となっていた可能性はある。
であれば、劉曄だけ「淮南成悳人」と書いたのは
後漢時代の区分ということで、整合性はつく。

 

以上から分かることは、
これまでの記事で私は何度か
三国志の地名は晋代を基準に書かれる」などと
書いたことがあったはずだが
全然そんなことはなかったということだ。


今日のまとめ
・淮南地方は、後漢の時代は「九江郡」という名称。
・魏の時代は「淮南郡」、一時期は「楚国」となった。
西晋の289年頃の楚国は荊州にあった
後漢末の動乱の頃、九江郡西部に阜陵国があった
・寿春は阜陵国に属した。同時に州治でもあった。
・九江郡の郡治は陰陵だった。
・寿春と陰陵の関係をいつか考えたい。
・阜陵県は巣湖付近にあったと推測する
三国志に書かれる「楚国」は
曹操の息子の曹彪が封じられた「楚国(232-251)」由来か。