正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

許褚の砦はどこにあった?

許褚は譙県の人である。
※譙県は後漢の頃は沛國に所属している。
後漢末、許褚は若者と一族数千家を集め、
壁(=砦)を築いて賊を防いだ。
汝南葛陂賊萬餘人が砦を攻めると
許褚の軍勢は少なかったが力の限り防戦した。
軍糧が不足したため、偽って賊と講和し、
その際に許褚が怪力を見せつけると、賊は逃走した。
淮、汝、陳、梁の間の一帯で許褚の武名が轟いた。
曹操が淮、汝の一帯を巡行した際、これに帰伏した。

 

ここで考えたいのは、
許褚の砦はいつ、どこにあったか、という点だ。

 

私はそれこそ、反董卓の義兵が挙がった頃に
世の乱れるのを警戒した許褚のような者たちが
各地に砦を立てて自存自衛を目指したのだと
長いこと考えていた。

 

たとえば曹仁にも似た話にあり、
その挙兵時期は190年頃と見られる。

 

>後豪傑並起,仁亦陰結少年,得千餘人,
>周旋淮、泗之間,遂從太祖為別部司馬,行厲鋒校尉。

 

この「少年」という箇所に注目するのなら
黒山賊張燕にも似た記述がある。

 

>黃巾起,燕合聚少年為群盜,
>在山澤閒轉攻,還真定,眾萬餘人。

 

若者を糾合して軍事組織を立ち上げたという意味になろう。
許褚伝の記述を改めて見ておこう。

 

>漢末,聚少年及宗族數千家,共堅壁以禦寇。

 

ここに宗族と書かれているところがポイントである。
それは老若男女を内包しており、
つまりは守りのための組織化だ。

 

であれば、曹仁の190年頃の挙兵とはだいぶ様子が異なる。
いつ守りを固める必要があったのか、を考えねばならない。

 

分かるところから手を付けていこう。
許褚が戦ったのは汝南葛陂賊である。

 

献帝の初め、汝南の太守は徐璆であり、
その統治ぶりは称賛されている。
これを信じれば、徐璆がいる間は
汝南に賊は発生していなかったはずだ。
その徐璆が汝南を離れるのは、
193年末頃だと私は推測している。
「同盟を組む」陶謙曹操の攻撃を受けたため、
徐璆は救援に向かい、
そのまま徐州に留まらざるを得なくなった。
そして東海相を受け継ぎ、劉備に仕える。
196年、袁術との戦闘で捕虜となった、
というのが以前の記事で書いた推測だ。

 

つまり194年頃から汝南に賊が発生した。
汝南の西南端では、李通も自衛のため挙兵した。
許褚が汝南葛陂賊の攻撃を受けたのは
194年~195年末までの頃だろう。
196年春には曹操が汝南黄巾を平定するからだ。

 

では許褚が自立したのは194年以前のどの時点なのか。
また場所はどこなのか。

 

ここで豫州の地図を置いておく。



 

州郡の区分は後漢のものに準拠している。
県名はすべてを記すことはできない。
三国志に登場するものを中心に、抜粋して載せた。
地図の余白の部分にたくさんの県が存在している。
また、河川についても未記載のものが多数ある。

 

さて、葛陂の「陂」とは湖のことらしい。
私は勝手に人口ダムのようなものを想像していたが、
人工湖か、自然湖かを問わないようだ。
豫州には中央部、南西部を中心に
大量の「陂」が存在しているのは水經注図から分かる。

 

「塘」というのも史書に見られるが、
こちらは人工の貯水池を指すようだ。

 

一方で、山地はほぼ存在しない。
水經注図にはちょこちょこ描かれているが、
現在の地図を確認しても
ほとんど丘陵地帯は見当たらない。

 

つまり天然の要害はなく、
河川が州内を縦横無尽に走るため、
「攻めやすく」
「守りにくい」土地だったと言えるだろうか。

 

許褚が砦を築いたと言っても
山地を頼ることは出来なかったかも知れない。
ただ、もしかしたら湖沼の多い地帯に根を張り
防衛線を狭めるなどの工夫はしたかも知れない。


さて、徐璆が不在となってしばらく経った194年後半頃の
豫州の勢力を載せておく。



南西部には李通がおり、
李通は黄巾賊とも戦っていた。
その汝南黄巾の所在だが、
のちに官渡の戦いの頃、
劉備が㶏彊諸県を巡って黄巾残党を煽動しているので
少なくともそのあたりは勢力圏であったろう。

 

汝水の支流に澺水があり、その東方に葛陂が存在する。
葛陂賊はこの地を本拠地としたのだろうが、
黄巾の亜種であったのかどうかなどは不明だ。

陳国では陳王の劉寵が輔漢大將軍を自称し、
軍勢を集めて陽夏に駐屯していた。
隣郡の多く人々がこれに帰伏したという。

 

梁国の梁王、梁相だが
この時期、彼らは全く存在感がない。
193年春に兗州で敗北した袁術
陳国ではなく、梁国を素通りして
揚州へと敗走しているので
陳国と違って梁国は
国境を統制できるリーダーがいなかったのだろう。

 

さて、袁術は195年頃には陳国方面へ侵攻した形跡がある。
陳国の武平には袁術の任命した陳国相の袁嗣がおり、
それが曹操に打ち破られているからである(196年1月)。
この、陳国の情勢については別の機会に考察する。

 

ここで注意すべきは、
おそらく袁術は陳への進攻に際して
譙県も陥しているはずだ、ということだ。
譙は後漢時代の豫州刺史の駐屯地でもある。
195年の進攻は、濄水を辿ったルートだと私は推測する。

 

ただし、潁水ルートの可能性も排除できない。
水經注によれば、潁水ルートにある項県には
袁術の築いた城があったという。

 

考えるべきは、
許褚が袁術の攻撃を受けた形跡もなければ、
袁術に降伏もしなかった、ということだ。

 

であれば、そのルートから外れたところに砦があったはずだ。
そして許褚は陳国を頼っていない。
また、葛陂賊とは交戦する場所にいた。

 

上記を考慮すれば、
潁水西岸で、陳国とはある程度距離があり、
葛陂と程遠くない場所であったろうか。
(緑のはてなマークのあたり)
あるいは更に南進して、揚州との州境近くに
身を落ち着けてたりした可能性はあるだろうか。
(青のはてなマークのあたり)

 

場所についてはだいたいの目星はつけた。
ではそこへ移動した時期は、絞り込めるだろうか。

 

もし193年以前に移動していたのなら
そこには汝南太守の徐璆がいるわけで
勝手に砦を築くなど難しいはずだ。
それこそ自分たちが賊扱いをされかねない。
であれば、徐璆不在の194年以降の可能性が高かろう。

 

ではなぜ、故郷を捨てて「混乱の汝南」へと向かったのか。
理由の1つは、沛国もまた「混乱の沛国」だったのだろう。
沛国相の袁忠も徐璆と同じく「陶謙の一味」であったが
さらには曹操と仇敵関係にもあった。
193年後半、沛と隣接する彭城は曹操により破壊された。
袁忠が會稽へ逃亡したのはこの時だろうか。
そのあと、劉備が小沛に駐屯する194年夏頃まで
沛国相は不在だったのではないか。
沛国王は存在するが、まったく存在感はない。
そして徐州方面からの流民も入ってきていて
混乱は増していった。

 

さらに194年夏からは、兗州において
曹操呂布との激しい戦闘が始まった。
そちらで発生した難民の流入もあったはずだ。
194年秋には蝗害も発生している。

 

もうひとつ言えば、袁術の襲来も予見していたかも知れない。
ふたたび複数の豫州刺史が立ち、正当性を争うならば
州治(=州の首都)たる譙は係争地になりかねない。
実際に袁術は195年頃には豫州への侵攻をしている。
これこそが「混乱の汝南」「混乱の沛国」の二択で
前者を選んだ理由となろう。

 

最後に。
曹操に帰伏したのはいつなのか。
許褚は、曹操が淮汝の地を巡った際に帰伏したという。
196年春、曹操は潁川、汝南の黄巾を破った。
この時に汝南西部は曹操の勢力圏に入ったはずで、
ここで帰伏したと考えるのが一番自然ではある。

 

ただしその場合、許褚は197年春の張繍の戦い、
典韋が死んだあの戦いのとき、
どこにいたのかという疑問は残る。
197年9月に再び袁術は陳国にちょっかいを出し、
曹操に撃退されているが、
その時に許褚が帰伏したという可能性はあるだろうか。
いや、それは考えにくいのではないか。
もし許褚がたとえば汝南南部の人であったのなら
曹操が自分たちの砦に確実に来訪するまで
自存自衛を決め込む選択肢もあったろうが
そもそも許褚は外部の人間である。
曹操が汝南黄巾を破った時に、それを頼るのが自然であろう。
あるいは、196年秋に曹操献帝を迎え入れたタイミングだが
許褚が帰伏したのはあくまでも
曹操が淮汝を巡った時」と書かれている。
曹操袁術を撃退した197年9月をそれにカウントしていいか分からないが
史書から読み取れるのはそのタイミングか、196年春しかない。
196年春と考えて差し支えないのでは、と思う。

(★※追記。資治通鑑を確認したら、そこでは197年9月の袁術撃退後に許褚が合流したかのように書かれていた。)

 

今日のまとめ(すべて推測)
・汝南が乱れたのは太守の徐璆がいなくなってから(194年頃)。
・許褚が沛国譙県を捨てたのは194年頃。
・譙は195年頃、袁術の侵攻を受ける
・許褚の砦の所在は汝南の潁水西岸のあたり
・そのため袁術の陳国侵攻ルートを回避できた
・196年春頃、汝南黄巾を破った曹操に許褚は帰伏した
・197年春、典韋が死んだ戦いで許褚はどこにいたのかは不明