正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

漢の御史大夫か、魏の御史大夫か(華歆、袁渙)

曹操献帝を奉戴した当初(196年)、曹操が大將軍、袁紹が太尉に任命された。
しかし袁紹曹操の下風に立つのを望まずに拝命を固辞(※)。
そのため改めて袁紹を大將軍、曹操を司空に任命した。
この少し前に楊彪が罷免されており、太尉はずっと空位となる。
司徒は194年以来、趙溫である。

※大将軍の地位は時代によって異なるが、この頃は三公より上である。

さて、以降の時系列を見ていく。

208年1月、司徒の趙溫が罷免される。
208年6月、三公が廃止されて丞相、御史大夫が置かれる。曹操が丞相となる。
208年8月、光祿勳の郗慮が御史大夫となる。

213年5月、曹操が魏公となる。魏国には丞相已下羣卿百寮が置かれる。

214年11月、曹操が皇后伏氏を殺害する。これには御史大夫の郗慮が関与している。
この後、時期は不明だが郗慮が罷免される。

216年5月、使持節、行御史大夫 、宗正の劉艾が使者となり、曹操を魏王に任命する。
216年8月、鍾繇が相國となる。
217年6月、丞相軍師の華歆が御史大夫となる。

219年9月、相國の鍾繇が罷免される。
220年1月、曹操が死去し、曹丕が王位を継ぎ、丞相となる。
220年2月、太中大夫の賈詡を太尉,御史大夫の華歆を相國 ,大理の王朗を御史大夫に任命する。
220年11月、兼御史大夫の張音が使者となり、漢から魏への禅譲が行われる。
曹丕が皇帝に即位し、魏は相國を司徒,御史大夫を司空へと改称する。


ここから、気になるところを見ていく。


私はいままで気にしていなかったが、三国志集解を参照すると、
魏国に「丞相已下羣卿百寮が置かれた」というのは、魏国にも丞相が置かれたということである。つまり漢の丞相が曹操であり、同時に曹操は魏公国の君主であり、その魏公国にも丞相が置かれた。だが誰が魏公国の丞相かは不明で、おそらく空位であったろう。この後、鍾繇が相國となるが、これは魏の相國であり、丞相からの改名であったろう。

 

本題は御史大夫の方である。
漢魏の禅譲劇においては張音と王朗と、どちらも御史大夫として名前が出てくる。
王朗がなったのは魏王国の御史大夫であり、漢と魏とでそれぞれ御史大夫が置かれていたということと推測できる。
賈詡がなった太尉というのも、魏王国に太尉が置かれたということではないか。
後漢書献帝紀には、賈詡の太尉任命以下のことが載っていないのが証左となる。

 

では華歆がなったのはど漢・魏、どちらの御史大夫なのか。
私はずっと魏の御史大夫なのだろうと漠然と思っていたが、綿密に考察したわけではなく、自信はなかった。
とりわけ、華歆は漢朝との関係が深かった。
当初は司空時代の曹操の參軍事となるも、その後は魏公国~王国には取り込まれずに
漢の尚書,侍中,尚書令を歴任した。その後、216年末頃に丞相軍師となった。

一方で、郗慮罷免以降の漢の御史大夫は不明である。劉艾も張音も使者として臨時代行しただけであり、この時期に別の本物の御史大夫がいたのか、
あるいはその後に劉艾が本官となったのか、空位であったのか、謎だらけである。
であれば、漢朝と関係の深い華歆が、漢の御史大夫となっていたという可能性も考えられる。

 

さて改めて三国志集解を紐解くと、華歆がなったのは魏の御史大夫というのが結論のようである。三国志武帝紀は漢の御史大夫の郗慮の罷免を載せず、華歆の御史大夫任命を載せる。これは魏の御史大夫だからである、というのが簡潔な説明だ。
(だが、郗慮の御史大夫任命は武帝紀にも載っているが・・・)
一方で、後漢書献帝紀までが華歆の御史大夫任命を載せたのは范曄の不明である、と批判している。
また、華歆伝では「魏が建国されてしばらくして、華歆が御史大夫となった」とあり、たしかに陳寿が「魏の御史大夫」として認識していたであろう形跡は残っている。

 

つまり、魏公国が発足すると同時に公国の官制が設定され、丞相、御史大夫まで置くことを想定した。実際に担当者を任命するのは後年にずれ込み、丞相も相國へと改称された。
魏公国の初代郎中令の袁渙が「行御史大夫事」でもあったのは、まさに彼こそが初代御史大夫にもなるはずだったからだ。
実はこの1行が言いたいがための今回の考察である。
袁渙について記事を書くつもりだったが、「行御史大夫事」だけでボリュームがかさみそうだったので、記事を分けることにしたのだ。

 

以上の考察はおおよそ的を外していまいと思うが、ちょっと気になる記述(下記)も出てきてしまった。

 

三国志の文帝紀の注は、曹丕が魏王即位に関連して、袁宏の後漢紀の漢帝詔を載せる。これによれば、魏王、丞相を任命する詔勅を奉じた使者は「使持節御史大夫華歆」である。
この時、魏の相國は空位なので、魏の臣下のトップである華歆が使者となった、と考えられることも出来るが、曹操の魏王任命時を考えれば、漢の御史大夫が使者となったとする方が自然に思える。
それとも魏の御史大夫である華歆が、漢の御史大夫を代行したのか。
あるいは元の詔勅分には御史大夫としかなかったのを、袁宏が「華歆」の名を勝手に補ったのか。袁宏は東晋代の人である。袁渙の子孫でもある。
なお、三国志集解はこの箇所について言及がない。

 

では華歆がなったのは漢の御史大夫なのだろうか。
改めてその場合の時系列を整理する。

 

216年5月、使持節、行御史大夫 、宗正の劉艾が使者となり、曹操を魏王に任命する。
216年8月、鍾繇が相國となる。
217年6月、丞相軍師の華歆が「漢の」御史大夫となる。
219年9月、相國の鍾繇は罷免される。
220年1月、曹操が死去し、曹丕が王位を継ぎ、丞相となる。使者は「漢の」御史大夫の華歆。
220年2月、賈詡を「魏の」太尉,「漢の」御史大夫の華歆を魏相國 ,王朗を「魏の」御史大夫に任命。
「漢の」御史大夫は太常の張音が兼任する。
220年11月、兼御史大夫の張音が使者となり、漢から魏への禅譲が行われる。

 

これでも筋が通る。
振り出しに戻ってしまってここから先の考察が出来るかどうか。
ひとつ気になるのは、曹操が華歆をどう思っていたかである。
長らく漢朝においておいた華歆をなぜ自分の幕僚にしたのか。
漢朝工作がひと段落して、自分の側近として取り込んだのか。
あるいは華歆を漢朝においておくことを心配したのか。
あるいは一時的に側近として意思疎通を図り、その後に「漢の」御史大夫として朝廷に戻したのか。
いずれ華歆のことも書くつもりであったが、この件に踏み込むのは難しいかもしれない。三国志だけ読めば「魏の御史大夫」とする方が自然だが、
注にある後漢紀を読めば「漢の御史大夫」の方が自然、とまでしか言えない。

 

取り合えず次回は袁渙の予定。