正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

國淵と屯田制と太僕

國淵(国淵)は青州樂安国の蓋県の人である。鄭玄に師事し、後に邴原、管寧らと遼東に疎開した。帰郷後、曹操に召されて司空掾屬となり、会議においては直言して憚らなかった。屯田制を拡充することになるとその担当者となり、巧みに制度を整備し、5年も経つと倉庫は穀物で満ちた。曹操が関中征伐に向かった際(211年)には居府長史として留守を守り、田銀の乱の平定に首謀者以外を赦免することを進言。また、捕虜とした数の実数を報告したことが曹操に喜ばれ、魏郡太守となった。その後、(魏公国が建つと=213年)太僕となった。國淵は公卿の位にあっても慎ましやかな暮らしは変えず、死去した。

 

三国志の魏書十二「袁張涼國田王邴管傳」は、おもに後漢末を生きた清廉潔白な士を載せる。とりわけ出処進退にあたって、後世の模範となるような者たちである。
それを考えると國淵だけ少し毛並みが異なるように思う。
反乱者の数を水増しするのは決して誇れることではないとして実数を報告した逸話はあると言えど。

 

鄭玄は当時を代表する大学者で、そのため儒雅之士は彼に周りに集まった。
一方、同じ青州北海人の邴原も高潔な人柄で高い名声があり、英偉之士が周りに集まった。國淵は師匠の鄭玄ではなく、邴原を選び、ともに遼東に疎開したようだ。

 

帰郷したのはいつか。
邴原は公孫度の存命中(-204年)であり、國淵も同時期かも知れない。
だが、もし國淵が故郷の樂安国に戻ったのなら、そこは明確に袁譚の支配領域である。
曹操に召されたのは袁譚死亡(205年1月)後だろうか。
國淵は若い時分に名声があったなど書かれていないが、曹操に幕僚として迎えられたのは何故だろう。おそらく同時期に曹操に仕えた邴原からの推薦でもあったのだろうか。
そして次第にその実務能力が評価された國淵は、屯田制の運用責任者となる。
具体的な記述はないが、「司空〇〇掾、典屯田事」ぐらいの肩書きになったろうか。

 

さて、曹操の勢力圏における屯田制は、196年に棗祗、韓浩らの建議により始まった。
任峻が典農中郎將、棗祗が屯田都尉となり制度を確立したが、両者とも早世した。
任峻は204年に死去している。棗祗は不明だが、どうやら列侯になっていないので、功臣二十余名が列侯となった207年以前に死去したのだろう。
國淵が責任者となったのは206年とか、そのあたりだろうか。
その少し前、沛南部都尉の袁渙が屯田について意見具申しているが、彼は屯田の責任者となってはいないだろう。

 

曹操は208年に丞相となるが、それに伴う異動はとくに記述されない。
おそらく司空掾屬から丞相掾屬にスライドしただけであろう。

 

曹操が西征する211年7月、國淵は留守役となった。
単に実務官僚というだけでなく、腹心としての信用も得ていたのかも知れない。
なお、実際の留守役のトップとしては五官中郎將の曹丕がおり、その相談役としては代表的な「名士」である邴原と張範がいた。
だが、実務をとりしきったのは國淵と思ってよいのだろうか。

 

ここで気になるのは「留守役として、どこにいたの?」という点だ。
この頃の曹操は魏公となる前で、「丞相、領冀州牧、武平侯」である。
丞相府は許都にあるだろうか、冀州牧の役所は鄴なのだろうか。
武帝紀によれば曹操は209年12月に揚州から譙に軍を還した。
この後、西征までの1年半、曹操が移動した記述がない。
その一方、210年冬に鄴に銅雀台が作られている。
これは別のテーマとなるので、いずれ考えてみたい。

 

さて、212年1月、曹操は西征を中断して鄴に「還った」。
この時、國淵は魏郡太守に任命される。
屯田制は軌道に乗ったのだろうか、誰が後任となったかは史書は触れない。
そして213年5月に曹操は魏公となり、魏公国の官制が整備される。
國淵はこの時に魏の太僕となったようだ。

 

ちくま学芸文庫三国志8巻には巻末に職官の説明が載っており
それは清代に成立した「三国職官表」を整理したものだという。
それによれば太僕は「車馬を司る。天子行幸の任にあたる」とある。
現代の感覚からすると、どうにも九卿(=大臣)の職掌については軽重の偏りがあるように思え、きわめて職責が重そうなものもあれば、閑職に思えるものもある。
「車馬を司る」など、大臣の個の能力が問われる官職だったのだろうか。
もちろん大臣の地位にいれば曹操に意見具申する機会はあり、
國淵に求められた実際の役割はそちらなのかも知れない。

 

さて、これを機会にもう少し太僕について調べてみた。
後漢書の百官志ではほぼ同様の記述である。
だが、晋書の百官志によると太僕は典農をも統べたようである。
もしかしたら魏公国の太僕も同様の職掌であったかも知れない。
おそらく屯田制は軌道に乗っていただろうが、國淵が引き続き屯田制の責任者に就いていたとしてもおかしくはない。

 

では國淵はいつ死去しただろうか。
曹丕の魏王時代、220年3月に「丁亥令」を出し、早世した國淵らの遺児を朗中に取り立てるよう命令した。
「故尚書僕射毛玠、奉常王脩、涼茂、郎中令袁渙、少府謝奐、萬潛、中尉徐奕、國淵等,皆忠直在朝・・・」

 

さて、ここでは「太僕國淵」となっていない。
おそらく「中尉」を省略されており、略さなければ「中尉國淵」となるはずだ。
これは死亡時、國淵が中尉だったのだろうか。
それとも死後に中尉を追贈されたのであろうか。
太僕は中尉と同格(以上?)であると思われるので、死後にわざわざ中尉を追贈するとは思えない。本伝には記されないものの、実は中尉への異動後に死去したのではないか。

 

※なお、同じ理屈でいくと涼茂は「奉常」が省略されている。
彼は死亡時は太子太傅で、その前は奉常だったが、死後の肩書としては九卿である奉常の方が良かったのだろうか。
これは別の調査が必要である。

 

國淵に戻る。
ここで当時の大臣の経歴を洗い、根拠立てて考察しようとしたが、とても書ききれない。なので最低限のことだけ。
この魏公国/王国の時代、太僕に任ぜられたのは國淵と何夔しか見当たらない。
國淵の後任が何夔か、あるいはその間に何名か太僕を担当した者がいるのか。
後者の場合は國淵の死亡時期の推察は難しい。
およそ214年から218年のあたりに中尉に異動となり、数日で死去してしまうなら
どのタイミングも考えられる。

だが、もし何夔が直接の後任であるなら、何夔が太僕に就任できた時期は限られる。
その場合の推察を時系列で書いてみよう。
なお、この時期の中尉として名を遺したのは、崔琰・涼茂・楊俊・徐奕・邢貞である。

 

213年5月、曹操が魏公となる。國淵は太僕、崔琰は尚書になる。中尉は不明
214年頃、崔琰が中尉となる。
216年頃、崔琰が失脚する。涼茂が中尉となる。
216年頃、涼茂が奉常に異動。楊俊が中尉となる。
217年10月、曹丕が魏王太子となる。涼茂が太子太傅、何夔が太子少傅となる。
218年頃、涼茂が死去。何夔が太子太傅となる。
219年9月、魏諷の乱の責任を取り楊俊が辞任。徐奕が中尉となる。
219年末頃、徐奕が在職数月で病気のため辞任。國淵が中尉、何夔が太僕となる。
220年1月、曹操が死去。曹丕が魏王となる。
220年1月頃、國淵が死去。邢貞が中尉となる。
220年3月、「丁亥令」。曹丕が國淵らの遺児を朗中に任命する。
220年頃、邢貞と衛尉の程昱が揉め、両者とも罷免。
220年頃、邢貞が奉常となり、程昱は衛尉に復帰。
220年10月、漢から魏へ禅譲。この時の中尉は不明。

 

徐奕の辞任、後任の國淵の死去から「丁亥令」までかなり短期間となる。
だがそれ以外は違和感はなく、太僕の空きも出ない点が嬉しい推測と言える。

 

ここまで書いてきて何だが、二十五史補編の三国志の宰相表などを見れば
先人の考察した歴代大臣も分かるはずだ。
まぁ自分で一度情報を整理するのも悪いことではないだろう。
私は両晋南北朝十史補編を所持しているが、まったく手に取っていない。

 

次回はひとりの人物でなく、魏公国発足時の尚書、六卿についてのまとめ。