正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

魏公国発足時の尚書と六卿

このブログは正史を読んで気づいたことをメモするために始めたが
これまでのところはその予定を外れて考察のようなことばかりしている。
なにぶん書きながら新たな気付きも多々あり、それは良いのだが
その度に追加で調査しているため、時間を取られて仕方がない。
ブログを継続するためにも、今後はシンプルに記述することを心がけよう。

 

さて、前回は國淵について書いたが、彼は魏公国の大臣の一人である。
私のこのところの関心はこの時期の曹操政権の幹部たちを整理することである。

 

これに関して、ひとつ注目したい記述がある。

 

曹操は213年5月に魏公に命じられた。
封土は河東、河內、魏郡、趙國、中山、常山、鉅鹿、安平、甘陵、平原の十郡である。(このため、趙王の劉珪は博陵国に徙封されたようだ)
同年10月には魏郡を分割して、(魏郡とは別に)魏郡東部、西部を置いた。
そして同年11月、初めて尚書、侍中、六卿を置いたという。

 

ここに裴松之の注があり、魏氏春秋の記事を引いている。
「魏氏春秋曰:以荀攸尚書令,涼茂為僕射,毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔為尚書,王粲、杜襲、衞覬、和洽為侍中。」

 

これは私の着目した一文である。
これによると、魏公国設立当初の公国幹部は下記の者である。


尚書令:荀攸
尚書僕射:涼茂
尚書:毛玠、崔琰、常林、徐奕、何夔
侍中:王粲、杜襲、衞覬、和洽

 

魏氏春秋の作者の孫盛についてはその筆致の潤色への批判もあるが
まるでデタラメなことを書く人物ではない。
彼は東晋時代の人だが、では彼は先行史料の中から上記を確定できる記述を見つけて引用したのであろうか。
私は疑問に思う。おそらく彼は複数の先行史料を読み込んで、彼なりの推測をもって上記の記述を為したのではないか。
だからこそ、六卿のメンバーについては言及しなかった。
メンバーを確定できなかったからである。

尚書令、侍中はまず正解だろうが、尚書については疑問がある。
まず常林伝を読むと、常林はおそらくこの頃は魏郡東部都尉であり、
尚書となったのはもっとあとの時期と考えるのが自然である。
徐奕も雍州刺史であったはずだ。
何夔は本伝に尚書となったという記述はないが、後に僕射となるため、この時期には尚書だった可能性もあろう。
また毛玠伝では毛玠は魏国建国当初に尚書僕射となり、「再び人事を司ることとなった」と書いてある。
であれば、涼茂と毛玠の二人が左僕射、右僕射となったのではないか。
そもそも尚書の定員も不明である。
常林や徐奕の代わりに張既が初期メンバーとしていたのは間違いないと思うが
それ以外はハッキリとは分からない。
220年頃までのメンバーを考察をしても、定員自体が(令、僕射も合わせて)6枠である可能性すらある。

 

もし定員が6枠ならば
荀攸、涼茂、毛玠、崔琰、何夔、張既がその発足メンバーだろうか。
もっとも僕射が2人いて、尚書が4人しかいないというのは何となく違和感があるが。
ではもう一人追加するとしたら誰であろうか。

 

荀攸は214年に死去する。その後任は明言されないが、私は劉先ではないかと推測している。劉先は劉表のもと配下である。この時期の魏の尚書令となった者は4名分かっているが、荀攸、劉先、徐奕、桓階という順番で就任したのではないかというのが私の推測である。であれば、劉先は当初から尚書のメンバーに入っていたのではないか。
これはあくまでも想像である。

 

では次に六卿とは何を指すのか。

 

漢魏帝国の九卿と言えば、おそらく下記である。
光祿勳、太僕、廷尉、大司農、少府、太常、宗正、衛尉、大鴻臚

 

魏公国/王国においては名称が異なる職について変換する。
郎中令、太僕、大理、大農、少府、奉常、宗正、衛尉、大鴻臚

 

このうち大鴻臚は封建諸侯や異民族への対応を司るので、漢帝国の専売特許だろう。
そして、奉常、宗正は魏の建国におくれて216年に、衛尉は217年に置かれた。
だとすると、残りは「郎中令、太僕、大理、大農、少府」の五卿しかない。
魏氏春秋が六卿メンバーを記述しなかったのは、まずこの問題を解けなかったからではないか。

 

解の1つは、実は五卿しか置かれなかった、ということである。
ただこれでは話がここで終わってしまうため、「謎の第六卿」を考える。
まず、九卿に匹敵する職として思い浮かぶのは將作大匠である。
漢魏禅譲の際には、「九卿」の次に將作大匠の董昭の名が出てくる。
ただし董昭の就任は曹丕の魏王即位のタイミングであり、
それ以前に將作大匠となった者は不明である。

 

次に考えたのは中尉である。
これは漢帝国においては「執金吾」と呼ばれる、と言えばその職責の重さが分かる。
魏公国、王国においても中尉は常にトップの人材が当てられ
むしろ五卿よりも重視されてると想像したくなるほどである。
職責的には中尉を含めて「六卿」と表現したのではないかと私は推測した。

 

だが、そもそも中尉とは何か。
それは、郡においては太守と都尉が置かれ、国においては相と中尉が置かれたという、あの中尉である。
であれば比較されるべきは魏郡太守であり、やはり六卿に混ぜるのは無理があるのだろうか。
そして何より、魏建国当初の中尉は不明である。

 

◆まとめ
・魏氏春秋の言う初期の尚書メンバーは間違いの可能性あり
・当初の尚書の定員自体が判然としない
・六卿のうち五卿までしか分からない

 

最後に六卿と魏国十郡の長官を書いておこう。
一部推測も混じる。

 

郎中令:袁渙
大理:鍾繇
太僕:國淵
少府:謝奐(あるいは萬潛)
大農:王脩

 

中尉:担当者不明
魏郡太守:王朗
魏郡東部(のちの陽平郡):常林
魏郡西部(のちの廣平郡):陳矯
河東太守:杜畿
趙郡太守:張承
中山太守:王凌


河內太守:担当者不明
鉅鹿太守:担当者不明
常山太守:担当者不明
安平太守:担当者不明
甘陵太守:担当者不明
平原太守:担当者不明