正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

高順はなぜ処刑され、張遼はなぜ許されたか

高順と張遼

 

どちらも呂布に仕えた名将である。
三国志の各種小説のせいなのか、
どうしても曹操には「人材コレクター」のイメージがある。
その曹操がなぜ高順を許さなかったのか、
配下としなかったのかと、残念でならない。

 

だがあらためて両者の行動を見ていくと
その結末は必然だったのかも知れない。

 

まず、呂布の敗北後に
曹操陳宮とのやりとりは記述されており、
もしかしたら曹操陳宮を許したのかも知れない、
とは想像できる。

 

だが、高順についてはそもそも記載がない。
曹操がこれを生かそうとしたのかどうか、
高順がそれを拒んだのかもどうかも分からない。

 

三国志呂布伝には
呂布は縊殺され、
呂布陳宮、高順らは梟首にされて許都に送られ、
その後に葬られた」とだけある。
高順は籠城戦に参加していたのは確かだが、
具体的な動向は不明だ。

 

後漢書呂布伝には
「侯成らは陳宮、高順を捕らえ、
配下とともに降伏した」とある。
つまり、高順が侯成らと異なる立場であることは
後漢書を読んでハッキリとする。

 

一方で張遼はどうか。張遼伝にはこうある。
「太祖破呂布於下邳,遼將其眾降,拜中郎將,賜爵關內侯。」
おそらく張遼伝を読み込んでる人には常識なのだろうが、
張遼呂布の敗北により共に捕縛されたのではなく、
配下と共に降伏したのである。
関内侯を賜っているというのは
降伏の功績を認められたということである。

 

張遼はこれ以前に魯相となっているので
魯において曹操軍の攻撃を受けて降伏したのか、
下邳の籠城戦の最中に城外に逃亡して降伏したのか、
侯成らと行動を共にしたことで手柄を得たのか。
そのあたりのことはよく分からない。
ただし、張遼伝から浮かび上がる彼の人柄を思えば、
侯成らと共に味方を捕縛するというのは考えられるものなのか。
下邳とは別のところで孤立し、やむなく降伏したのではないか。


さて、次に思い出すべきは、于禁伝である。
昌豨は二度目の反乱に失敗し、于禁に降伏したが、
于禁は彼を処刑した。


その時の言葉は
「諸君不知公常令乎!圍而後降者不赦。」
(諸君は曹操様の常令を知らぬのか!
包囲されたあとの降伏は赦されないのだ。)

 

もっとも、昌豨は一度目の反乱では
包囲された後の降伏で赦されている。
また、昌豨の死を知った曹操の反応からすると
もしかしたら再度、昌豨を許した可能性はある。

 

だが、基本的な方針は
「包囲後の降伏は赦さず」だったようだ。

 

下邳の籠城戦については、
おそらく城内にいたと思われる陳紀・陳羣親子や
袁渙については赦されている。
色々と細かい判断基準はあったのだろう。

 

私には曹操=人材コレクターというイメージがありすぎて
どうしても見逃しがちになっていたのだが
上記の基本方針があったことは思い出しておきたい。

 

高順と張遼の運命を分けたのは、
その一点だけなのかも知れない。

 

このルールが他のケースにおいてはどうだったのか、
その追加調査については今後の課題とする。