昌豨(昌狶、昌霸)
先主伝の本文と、諸葛亮伝の注では昌霸と書かれる。
あるいは蜀漢においては「豨」は避諱の字であったのだろうか。
さて、昌豨はいわゆる泰山諸将のひとりであり、
呂布が敗北した際に臧霸らと共に曹操に帰伏した。
このとき、臧霸は琅邪相,吳敦は利城、尹禮は東莞、孫觀は北海、孫康は城陽太守に任命されたが、昌豨については記載がない。
だが、まもなく劉備が反旗を翻すと昌豨も同調した。
この時は張遼と夏侯淵が昌豨を東海に包囲した。昌豨は降伏し、許された。
後に再び昌豨は叛いたが、于禁、夏侯淵、臧霸がこれを破り、于禁がこれを斬った。
206年頃のことである。
先日、何の気なしに昌豨のWikiを見たら、徐州東海人と書かれていた。
典拠を示していないが、先主伝の「東海昌霸反」という文言からの推測であろうか。
そこで中文Wikiを見たら、そちらでは泰山郡人としていた。
昌豨が泰山人の臧霸、孫觀らと行動していたこと、旧友の于禁がまた泰山人であることを根拠としていた。
これも独自研究に過ぎないからWikiのルールに反しているかも知れないが
こちらの方が可能性が高いだろう。
昌豨が反乱を起こしたのは東海国で、おそらく東海相に任じられていた。
それをもって「東海昌霸反」の記述となったと思われる。
では昌豨が東海相であり、同時に東海人でもあった可能性はあるのか。
私の記憶では、出身の郡国の太守・相にはなれないというルールのはずだ。
もっともどこでそれを知ったかは忘れてしまったが。
昌豨が東海相であったろうというのは長らく考えていたことだが
中文Wikiでは彼を昌慮郡太守と見なしている。
呂布の敗北後に曹操は臧霸らに青徐二州を委ね、城陽、利城、昌慮郡が新設されたということを根拠としている。
昌慮郡は東海国の西端にある昌慮県を中心に分離されたものであろう。
そして、昌豨が平定されたタイミングで昌慮郡は廃止されたから(=東海国と併合か?)、ということらしい。
新設された昌慮郡だけ太守が不明であるから昌豨がその太守なのではという推察だろうが
この時期は東海国相も不明である。
のちに昌慮郡が廃止されたのも昌慮郡人に対する処罰と見なすことは出来ない。
戦後処理の中で昌慮と東海が再び合併されたというだけであろう。
第一、この頃には東海王が存在するので、合併に際して東海の方を廃止するという判断は不自然なはずだ。
★この後の記事で東海王と彭城を取り違える間違いをしたため、以降を大幅に修正する。書きながら考えていく、ではなく、考えをまとめてから書くように改めねば。★
東海王の劉祗は156年に即位している。193年に長安に子の劉琬を遣使すると、劉琬は平原相に任じられたという。その劉祗は200年に死去。子の劉羨が継ぎ、魏の受禪まで王位を保った。
昌豨の最初の反乱は199年~200年頃であるので、もし昌豨が東海相であったとすると、東海王の劉祗がそれに関与していたのか、その死は偶然のタイミングなのか、など気になるところだ。
(◆※追記。別の記事を書いていて気付いたが、東海国王は東海国、魯国を領有し、魯に都を置いていた。昌豨の反乱の影響は少なかったと思われる。)
さて、中文Wikiには別に彭城王のことも書いてある。
後漢書の孝明八王列傳には昌務なる人物が初平年間に彭城王の劉和を攻撃しており、
中文Wikiはこの昌務を昌豨の別名としている。
もしかしたら後漢書集解にもこのあたりのことが書かれているだろうか。
もう少し後漢書の勉強をせねばならない。
さて、後漢書を見ると彭城王の劉和は昌務に敗れて東阿県に逃れ、のちに国に帰還したという。
初平年間(190年~193年)、東阿県と聞くと反射的に想像をしてしまう。
東阿県は曹操の根拠地のひとつであり、193年は曹操が徐州に侵攻した年である。
つまり曹操の徐州侵攻に劉和が同調し、陶謙配下の昌務(昌豨)が劉和を攻撃。
劉和は曹操を頼って落ち延びた。
劉和は149年/150年に即位し、213年に薨去するまで在位64年という人物である。
この時の彭城相は薛禮だろうか。あるいは薛禮も劉和に同調していたのかも知れない。薛禮は揚州に逃れ、劉繇と協力する。
別の可能性を考えよう。
初平年間、徐州は黄巾賊によって荒らされていた。
劉和は黄巾賊に敗れ、兗州東郡の 東阿県に落ち延びたというだけかも知れない。
その場合、なぜ徐州刺史の陶謙を頼らなかったのかという疑問はある。
昌豨に戻る。
襄陵校尉杜松の部民の炅母らが反乱し、昌豨に通じたという。
おそらくこれは最初の昌豨の乱の時の出来事である。
曹操は杜松を呂虔に代え、呂虔が炅母らを殺害してこれを平定した。
集解は襄陵は襄賁の間違いだと言う。
襄陵県は司隸の河東郡にあり、襄賁は東海国の県であるから、その解釈は妥当だろう。
個人的にもう一点気になるのは、校尉の部分である。
この頃、校尉号は乱発されるが、
将軍号の下位バージョンとしての意味合いのものがほとんどである。
例外として、特殊な職務の行政官的なものもある。(典農校尉など)
一方で都尉は上記パターンに加えて、地名と結びつく場合がある。
汝南から二縣を分けて李通を陽安都尉とした例が分かりやすい。
官名は陽安県が由来のはずだ。
ならば、襄賁校尉というのは、襄賁県を含む数県を管轄する「都尉」だったのではないかと思うのだ。
なお、昌豨の死後、昌慮郡が廃止されたのと同じ時期に
東海の襄賁、郯、戚を瑯邪国へ転属させている。
中国歴史地図集を見るに戚県は東海の西端にあり(おそらく昌慮郡の一部だったろう)、
瑯邪からは離れているため、この転属を理解するのは難しい。
あるいは地図の方の誤りか。
襄賁は襄賁「都尉」の廃止を経て瑯邪への転属となったか。
郯は東海国の中心地のように思え、これが転属となるのは驚きである。
あるいはやはりこの郯こそが昌豨の本拠地で、その戦後処理としての転属なのだろうか。
あらためて地図を見ると東西に長い東海国は
その西端に昌慮があり、中央に郯、昌慮と郯の間に襄賁が存在する。
これも考察の手がかりになるだろうか。
最後に、呂布敗北後の199年初頭の徐州周辺の長官をまとめておく。
(一応、昌豨は東海のところに置いておく)
◆徐州刺史:車冑
東莞:尹禮
東海:昌豨?
昌慮:?
襄賁都尉:杜松
琅邪:臧霸
彭城:麋芳
下邳:?
廣陵:陳登
また、かつての曹操配下の将で、臧霸のもとに亡命していた徐翕、毛暉は
曹操に許されて郡守としたという。
この頃の曹操は一気に袁紹との対決姿勢に傾いており
青徐の地域はその地域に所縁のある者に完全に委ねる戦略だった。
もしかしたら上記リストのうちの不明な箇所は、徐翕、毛暉が太守となった地かも知れない。