正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

琅邪国の領域を再考する

前回の徐州の記事でスルーしてしまったのが、
華県、費県のこと。
各種資料を読み解けばその位置関係を
詰められそうな気もするが
それは別の機会に。
両県の帰属を調べていて分かったことを記す。

 

最初に地図を置いておく。(県はざっくり配置した)

後漢書地理志では
費県は泰山郡。華県は不明。

 

晋代ではどちらも琅邪国に所属する。
ただし三国志では臧霸が泰山華人と書かれる。
三国志は晋代の地理区分で
記載されることが多いイメージなのだが
これはどういうことなのか。

 

後漢書の琅邪孝王京伝も見る必要がある。
光武帝の子の劉京は西暦39年に琅邪公、
41年に琅邪王となった。
59年には泰山の蓋、南武陽、華、
さらに東萊の昌陽、盧鄉、東牟を増封。
劉京は莒県を都としたが、後に願い出て
華、蓋、南武陽、厚丘、贛榆を譲り、
代わりに東海の開陽、臨沂を望み、許された。
その結果、開陽を都とした。
華、蓋、南武陽は泰山の、
厚丘、贛榆は東海の所属となった。

 

ここから分かるのは、
後漢当初の琅邪はかなり北方まで領土を有し、
残すは山東半島の先端のみ。
それも増封で獲得した。
その間の「空白地帯」を見ると、
黔陬、不其、長廣がある。
前の2つは侯国のようだが
その点も考察の余地はあるだろうか。


さらに開陽、臨沂の代わりに譲った厚丘。
中国歴史地図集でも、
水經注図でもかなり南部に位置するが
(郯県よりも南方に描かれる)
もっと北部にあったと推測する。

 

この後、琅邪孝王京伝では
減封については書かれない。
であると、山東半島の先端までを有したまま、
後漢末に至ったのか。

 

曹操呂布を破ると、瑯邪、東海、北海を分割して、
城陽、利城、昌慮郡を新設した。
おそらくこの城陽郡は、
琅邪北東部、山東半島の南岸を有したと推測する。
晋代の城陽郡は少なくとも黔陬を有している。

 

三国志を読む限りは後漢末の琅邪が
山東半島の先端まで広がっていたとは
とても思えないが
地図集などで印象づけられているものよりは
ずっと広かった可能性はある。

 

ということは覚えておこう。


さて、次は西境について考える。


おそらく華県、費県の地域一帯は
後漢の当初は琅邪国で、のちに泰山へと編入
晋代には再び琅邪国所属となった。
泰山郡は南側に突き出た形をしているのが
不思議だったが
編入のためにそうなったと理解できた。

 

南武陽には冠石山があり、
そこから出る治水(別名を武水)は
東南に向かって流れて、沂水に合流する。
おそらく編入は関係なく
琅邪と結びつきの近い地域だったはずだ。
だからこそ、泰山華人臧霸
琅邪で活動することになる。

 

そして気づいてしまったのだが、
泰山郡の最南端の南城県。
これをどう考えたらいいのか。

 

南城県は水經注図には記載がない。
中国歴史地図集を参考に、手書き地図に書き込んだが
もとは東海国の所属だったという。
であれば、治水(武水)の地域とは別系統か。
華、費より南方にあるのは確実に思える。

 

闕宣の回で触れた記事を思い起こす。

 

武帝紀:
下邳闕宣聚眾數千人,自稱天子;
徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略任城。

 

ここで言う「任城」とは
兗州の「任城国」のことではなく
実は「泰山郡南城県」だったりするのでは?

 

つまり、正しくは
「徐州牧陶謙與共舉兵,取泰山華、費,略"南城"」

 

もともと、泰山とは距離のある任城国が
唐突に出てくることに違和感があり、
任城国に侵攻したと言えば黄巾賊の例があるので
闕宣=黄巾では?という想像をしたのだった。

 

だが、陳寿が本来書こうとしたのが
「闕宣と陶謙がグルとなって
かつて徐州所属だった「華、費,南城」を攻撃した」
であったなら、どうなるだろうか。

 

もちろん、華県、費県に対しては「取る」と書かれ、
任城に対しては「(侵)略」と書かれているので、
それは県と国の規模の違いのために
書き分けたのはないかとも思う。
だが、何か別の可能性も考えられまいか?

 

と思ったが、今日はもう時間切れ。
ここまでとする。

 

今後の課題:
・南城県の所在を絞り込む
・琅邪北部、東萊南部の後漢末の情勢を考察する