正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

後漢末の魯国について考える

後漢末、魯国の情勢はかなり謎である。
これを考えてみたいと思っていたが
ここのところ徐州について調査したところから
新たな気付きがあったので、それをまとめていく。

 

最初に地図を置いておく。

 

魯国以外で特筆すべきところを書いていくと、
以前も触れたが、黄河の流路の南遷である。
おそらく黄河に沿って東郡の北境、
平原の北境が定められたはずだが、
この頃には東郡と平原のど真ん中を突っ切るようになった。
これにより、三国魏の時代になると
東郡の黄河北岸は冀州に取り込まれる。
魏では平原も青州から冀州へ転属となるが
おそらく同じ理由であろう。

 

次に、前回見た琅邪国である。
後漢の時代になってすぐに
山東半島の先端まで領土を広げた。

 

さらに、縦長の形をした泰山郡である。
これについては前回の調査により、
南部が徐州から編入となったことを確認した。

 

他に気になるところでは
凹の字型の山陽郡である。
これは今のところよく分からない。
今回はスルーする。

 

さて、魯国である。
魯国は後漢書郡國志でも
晋書地理志でも豫州に所属しており
豫州の歪な形の原因となっている。

 

そして後漢末においては魯国相の動向も不明。
党錮の禁で命を落とした太尉の陳蕃。
その子が陳逸なのだが
のちに黄巾の乱党錮の禁が解除されると
陳逸は赦され、魯国相となっている。
また、冀州刺史の王芬が霊帝廃立を計画したが
曹操も誘われ、断ったあの計画である)
陳逸もそれに参加している。
王芬はその後自殺したが
陳逸の顛末は不明である。
いつまで魯国の相だったのか。
そして、董卓の専横以降、しばらくの間、
魯国相は史料から姿を消す。
192年の陶謙朱儁推戴計画においても
魯国相の名前は出てこない。

 

その後、再登場するのは
張遼呂布の配下として魯国相となった頃である。
197年頃か。

 

呂布が敗北すると、曹操は畢諶を捕らえた。
張邈の反乱時に家族を人質にされ、
泣いて曹操と別れた人物である。
畢諶は魯国相に任命された。199年頃か。

 

本題に戻り、今回気づいた魯国の秘密を書いていこう。
秘密といっても、私が知らなかっただけなのだが。
後漢書郡國志を見ると魯国は
秦の時代には薛郡と呼ばれていた。
そして前漢の呂太后の頃に徐州の所属となった(!)。
後漢光武帝はこれを改めて豫州所属とした。
つまり、豫州の歪な形は後漢以降となる。

 

次に、東海恭王彊伝を見ていく。
光武帝の長子の劉彊は東海王となった(西暦43年)。
その後、魯郡を増封され、
劉彊の封土は東海・魯郡に跨る合計二十九県となった。
都も魯に置かれた。
子の劉政が継ぐが、西暦90年にスキャンダルを起こし、
豫州刺史と魯相とに弾劾されている。
不思議なことだが、東海国と合邦となっても
魯国については豫州刺史の監察下ということか。

 

※以前、昌豨の反乱について書いた際、
東海王との関係についても書いたが
東海王は魯にいたのかも知れない。
後で昌豨の記事内にも追記しておく。

 

私は魯国は兗州と一体化していたのでは疑っていた。
その方が地形的にしっくり来るからだ。
たとえば、西晋末の兗州刺史の郗鑒は
魯国のあたりに割拠して抵抗を続けた。
そういうイメージもあったのかも知れない。

 

だがむしろ徐州との結びつきがあった。
これだと豫州の代わりに徐州が歪な形になるだけにも思うが
泰山南部も徐州とかかわりが深いことを考えると
その点は解消されるとも言える。

 

張遼のことも考えてみる。
呂布は197年頃、曹操と停戦していた。
であれば、勝手に豫州魯国の相に
自分の配下の張遼を任命するのは違和感がある。
あるいは曹操が任命したのかも知れないが
曹操がわざわざ豫州の魯国を
呂布の配下を任せるのも違和感がある。
だが、東海と魯が一体化していたのなら
それらの違和感は雲散霧消する。

 

上記を踏まえた場合、
たとえば青徐黄巾の兗州侵攻や
曹操の徐州侵攻を考える際に
新たな視点を提供してくれるものかどうか。

 

それは次回以降、いつか考えてみたい。