正史三国志を読む

正史三国志を読んだ感想やメモなど

袁術はなぜ南陽を捨てたのか

袁術南陽を捨てて兗州に侵入したが
曹操に敗北すると逃走に逃走を重ねて
淮南まで逃げてそこに落ち着いた。

 

敗北後に淮南を目指した決断こそ
考察すべき対象なのだろうが
今日はその前段、
なぜ南陽を捨てたのか、ということを考える。

 

もちろん「実は南陽を捨ててはいなかった」
という可能性もないではないが
それは今回はいったん無視する。
いずれ考えてみたい。

 

まず、地図(193年1月頃)を置いておく。



武帝紀:
四年春,軍鄄城。荊州劉表斷術糧道,術引軍入陳留,屯封丘。

 

劉表に「糧道を断たれた」ために、
袁術は陳留に侵入したというのである。

 

一方、袁術伝では侵攻の理由は書かれない。
ただし、南陽郡の袁術の政治が、
欲望をほしいままにしたものであったので
民は苦しんだ、とは書かれている。
後に淮南でも統治に失敗し
飢えに苦しむはめになるので
この記述に信頼を置きたくなってしまう。
つまり、「南陽を食いつぶし」
「淮南へ逃げた」という解釈である。

 

だが、武帝紀の「糧道を断たれた」という記述を思い出し、
それを正面から考察してみよう。
もし「糧道を断たれた」というのが事実なら
それは南陽での政治の失敗とは直接は結びつかない。
そして、劉表南陽を縦断して
袁術軍を苦しめたというような気配もないので
ますます「糧道を断たれた」が不明瞭となる。

 

そこで考えるべきは袁術軍の成り立ちである。
もともとは反董卓の義兵が挙がった際に
孫堅が長沙から北上し、南陽袁術と「合従」した。
南陽に至るまでに孫堅軍は数万に膨れ上がっていた。
そして軍糧の補給に非協力であった、
南陽太守の張咨は殺害された。
孫堅死後、その軍勢を併せたのが袁術である。
その兵数は南陽一郡で支えきれる以上のものであったのかも知れない。

 

であれば、外部から軍糧を確保していたのだろうか。
そうであれば「糧道を断たれた」という言葉の整合性が出てくる。

 

可能性の①は、豫州方面である。
この頃、正式な豫州刺史は不在であり、
袁術孫堅を刺史に任じていた。
その後、袁術がどれほど豫州に影響力を保ったか不明だが
こちらから軍糧を確保できないこともない。
だが、汝南は黄巾の活動が活発であり、
潁川にも黄巾がいた形跡がある。
どれほどの軍糧を当てにできたか分からない。
そして何より、劉表が「糧道を断つ」には、
距離の問題もあろう。

 

可能性の②は河南尹である。
これは考察しがいのありそうなところだが、
どうせ劉表のところで矛盾が出てくるので
今回はスキップする。

 

可能性の③は、江夏郡である。
孫堅が最初に挙兵した頃、江夏太守は劉祥であり、
劉祥は孫堅に協力していた。
また、盪寇將軍であったとも記されるが、
太守レベルで雑号将軍の号を帯びているのは
この時期では破格の待遇である。
間違いなく、袁術による任命だろう。
ちなみに劉祥の子の劉巴は最終的に劉備に仕える。
劉祥の話は零陵先賢傳に出てくるが
劉巴の父だからこそ史料に残ったのかも知れない。

 

さらにはこの頃、「呉人蘇代」なる者が長沙太守となっている。
孫堅が豫洲刺史となった時点で
自分の配下の蘇代に
太守を譲ったのだと推測される。
であれば、長沙からも江夏を通して軍糧が届けられていたか。

 

さて、劉祥に戻る。
南陽士民は太守が殺されたことを恨んでおり、
その矛先は孫堅と「同心」であった劉祥に向けられた。
そしてついに挙兵し、劉祥は「敗亡」した。

 

※「敗亡」の正確な意味は分からない。これだけでは必ずしも「死」を意味しないように思うが、前後の文脈からは「死亡した」と解釈する方が自然にも思う。

 

これがつまり、「糧道を断たれた」ということか。
劉表南陽士民と連動してこれを行ったのでは?
そう思うのだが、続きを読むと
劉表もまた、もとより劉祥との関係は良くなかったので
その子の劉巴を捕らえ、殺そうとした」とある。
これを読むと、劉表と劉祥がどこまでの対立関係にあったか
むしろ、明確に交戦していたとも思えなくなってくるが
しかし劉表南陽士民をバックアップしていても違和感はない。

 

さらに言えば、劉祥が「敗亡」した時期もハッキリとはしないが
孫堅は192年春に死亡し、
袁術は193年春に南陽を捨てている。
劉祥の「敗亡」がその間であっても特に矛盾は生じないと思われる。

 

なお、袁術と共に兗州に侵攻した武将に
「劉詳」なる人物がいるが、劉祥との関係や、
あるいは劉祥本人であるかどうかなども不明である。

 

今日のまとめ(すべて推測)
孫堅の集めた軍勢は南陽一郡で支え切れなかった
孫堅の協力者、江夏太守の劉祥が軍糧を補給をしていた
・劉祥は袁術の協力者でもあった
劉表および南陽士民が劉祥を破った
・その結果、袁術軍は飢え、南陽を捨てて兗州に侵攻した