劉曄は淮南郡成悳県の人で、
光武帝の子の阜陵王・劉延の子孫である。
若くして許劭にその才能を認められた(193-4年頃か)。
揚州では軽俠の者たちが軍勢を抱えており
その頭目たちの中でも鄭宝が最も有力で、
皇族の血をひく劉曄を担ごうとした。
劉曄は宴会の場でその鄭宝を斬り殺し、
その軍勢をとりまとめると廬江太守の劉勳を頼った(199年頃か)。
劉勳は孫策に敗れると曹操のもとへ走ったが、
劉曄は淮南に留まったようである。
曹操が寿春に来ると(209年)、召されて倉曹掾となった。
丞相主簿に転じて張魯討伐に従軍し、
帰還の際には行軍長史・兼領軍となった。
曹丕が皇帝に即位すると侍中に任命された。
曹叡即位後からしばらくして、
232年に病気のために太中大夫に転じ、
大鴻臚に異動となり、また太中大夫となり、死去した。
劉曄伝を読んでいると、彼もまたこの時代の最大の智者の一人と感じる。
注に引く「傅子」にもその智謀を示す逸話が多くあり
その智謀ゆえに時には君主にも本心を隠し
それがゆえに不忠を疑われて
最後には心を病んで死ぬというのもまた劇的である。
劉曄のすべてを一度に記事には出来ないので、
今回は書きたい点だけピックアップして書く。
次回の予定はない。
★後漢皇帝の宗族
劉曄は漢の宗族だが、「後漢」の宗族という点が特殊である。
たとえば劉備が漢の宗室にあたるという話を疑う人がいるが、
その劉備は前漢の皇族の末裔とされる(※後述)。
仮にその血筋が本当だとしても、
かなり遠縁の血筋ではないかとケチがつけられそうだが
劉焉も劉表も劉繇も、前漢の皇族の末裔である。
例外は劉虞。劉虞は光武帝の血を引いている。
※劉備は正史本文では前漢の中山靖王・劉勝の末裔とされるが
注に引く典略によれば、「臨邑侯」の傍系。
集解によれば光武帝の兄の孫が臨邑侯となっており、
劉備がその子孫だという説があげられている。
だが、それを非とする意見も書かれている。
※魏末から西晋の時代の大臣に劉寔(220-310)がおり、
晋書によれば彼は済北恵王の血筋。
光武帝どころか、第3代章帝の血を引いていることになる。
だが、劉寔は平原郡髙唐県の人であり、
「元和姓纂」によれば髙唐の劉氏の祖は
前漢の済北貞王・劉勃(劉邦の子)であり、
晋書が間違っている、という意見を中文Wikiで見た。
どちらが正しいか私には分からない。
ただし、後漢皇帝の血を引く者のうち
史書で活躍した者は片手で数えるほどしかいないとは言えるだろう。
★淮南の軍閥・鄭宝
これについてはスキップする。
いつか、袁術軍団の瓦解の謎と合わせて考察してみたい。
★曹操にいつ仕えたか。
演義では曹操の兗州支配と同時に
なぜか淮南人の劉曄が仕えたことになっている。
実際は曹操が寿春に来た際に招聘されたのであり
209年のことと考えて間違いないだろう。
200年頃~208年頃までは揚州刺史として劉馥がおり、
淮南の俊英の蔣済、胡質は州に仕えている。
蔣済は州別駕なので、揚州人の筆頭格として遇されていた。
一方で劉曄は州に仕えた記載がなく
出仕していなかったのか、記載がないだけなのかは不明。
ただし曹操が到着して山賊の陳策を討伐しようとする際、
群下の中から劉曄が進言しているので
州に仕えていたと考えることも出来るだろう。
なお、劉曄伝では司空倉曹掾に任命されたとあるが
曹操はすでに丞相になっているため、それは間違いだ。
★出世は遅い?
劉曄には卓越した謀臣のイメージがあるのだが
意外と重用されるのは遅い気がしてる。
たとえば劉曄が曹操と会う前年に
荊州平定により曹操に帰伏した和洽が
劉曄と同格の丞相掾屬を経て
213年の魏公国発足の際に侍中となっているのに対し
劉曄は215年の張魯討伐の際にやっと丞相主簿に転じた。
主簿とて確か4名の枠で
これを根拠なく昇進と見なすことは不適切かも知れないが
この張魯討伐の帰還時に行軍長史・兼領軍となっている。
こまかな職掌の考察は私にはできないが
張魯討伐時に曹操に認められ
腹心のポジションに引き上げられたと考えられる。
※劉曄と同時期に丞相主簿だったと思われる人物として
司馬懿、令狐邵などがいる。
ちなみにこの時、漢中に「督漢中軍事」として残してきたのが
侍中・領長史の杜襲である。
この時に軍事ブレーンの交代が起きたと私は考える。
だが、侍中になるのは曹丕の時代を待たねばならない。
※張魯伝の注が引く魏名臣奏では董昭の上表文を載せており、
張魯討伐の状況を描いたうえで「侍中辛毗、劉曄」と書かれる。
だがこれは上表文の時の肩書きであって
実際の従軍時の肩書きではないだろう。
★劉曄の献策と進言
献策よりは、情勢分析の確かさが秀でている。
今回はそのひとつひとつを論じることはしない。
ただひとつ気になるのは
張魯討伐時に劉備攻撃を進言したことである。
この時、劉備の支配する益州の領域では
頻繁に混乱が生じており、攻撃する絶好機だったという。
この話は裴松之が賈詡伝の注でも持ち出している。
つまり、賈詡は荊州平定後の孫権攻撃には慎重であり、
賈詡嫌いの裴松之が賈詡を非難せんがために
劉曄の「劉備攻撃策」を支持しているのである。
私にはこの「劉備攻撃策」が妥当かというと
かなり疑問に思っている。
だがそれを説明する材料がないので、それは別の機会にしよう。
今日のまとめ
・後漢の宗族で史書で活躍するのは劉虞と劉曄くらい。
・他の劉氏はほぼ前漢の皇族の末裔。
・劉曄が曹操に仕えたのは遅い(209年頃)。
・劉曄が曹操に信任されたのは遅い(215年頃)。